20万年的保守思考

現代人、生物学的に今の人間が登場したのは100万年以上前という説もあるが、遅くとも20万年ぐらい前らしい。

 

そもそも人類は生物学的にかなり不利なカタチらしい。
まず、2足歩行の意味がよくわからない。
他に2足歩行の動物は木の上で生活するサルぐらいである。
地面を移動するには4本足が有利であることはロボット工学的にも知られている。

むしろ3本足、あるいは1本足の方がバランスがとれる。

※ちなみに、タイヤみたいに車輪をもった生物がワラジムシみたいな細菌に存在する。

 

平地ではなく、木の上を含めて草木が生い茂った場所を移動するには2足歩行が有利という話はある。
あと、長距離を移動するには、4本足よりもエネルギーを消費しないとはいわれる。

 

2足歩行とは、実は「体を倒す→体を支える」の繰り返しだという。
このとき、単距離ははやくないが、長距離をてくてく歩くのは得意なんだという。

 

あと、頭をデカくするという意味においては4本でなく立ち上がって2足歩行するのが有利だ、というのもある。

 

脳がデカイ、これが結果的に他の生物を圧倒する力を手に入れたのは、現代でこそ言える話である。
そもそもアタマがデカくて何が有利だったのか20万年間不明であった。

 

それまでは、他の動物より運動性能に劣る人類は、木の上なんかで肉食動物から身を隠して、木の実や小動物や死骸なんかを食べてたんじゃないかといわれている。
今のように頭を使った形跡が見られないまま、20万年を過ごしてきたと考えられている。

 

最大のデメリットは2つ。
・頭がデカイために出産が危険である
・一人で獲物を採ってきて食うという行為に至るまで数年かかる

これはハラリ「サピエンス全史」に書いてあるが、赤子でも頭がデカすぎる。それに、キリンのように生まれてすぐに立ち上がることもできない。もし、人類が生まれてすぐ立ち上がることができるほど胎盤の中で成長することになれば、出産時にはデカすぎて母親が死亡してしまう。

 

このため、出産と、独り立ちするまでの長期にわたる養育期間は生物として致命的といってもいいレベルのはずだった。
頭がデカイ、というのは自然界に住む生物としてメリットよりもデメリットが多かったと思われる。

 

ちなみに、頭がデカイ=脳みそが大きい(脳の重量が全体重の比率からして重い)という話から言えば、現代人であるホモサピエンスよりも、一昔前のネアンデルタール人の方が脳みそがデカイ。
しかし、結果的にネアンデルタール人は消えた。

 

そして、およそ3千年前、何故か突然文明が誕生し、爆発的に発展し、現代に至る。
んじゃ、仮に20万年前に人類が誕生したとしても19万7千年間、何もなかったの?という疑問がある。

 

トンデモ理論のひとつに"人類は文明を築く前には意識がなかった説"とゆーのがある。
提唱者の名前を忘れたので検索もできないんだけど、面白い話ではある。

※その本を読んでないのでアレなんだが、意識とは何かというのも難しい問題だ。
この場合は人類特有と思われる意識…具体的には「自分は死んだらどうなるのか?」という疑問を持ったということではなかろうか。

 

ともかく、人類誕生からほとんどデメリットしかなかった知能により突然発展したのが現代である。

人間の本来の生き方、本当の暮らし、生物として本当の意味での保守(笑)とは、
文明が誕生する前の20万年間の暮らし方こそ、本来の人類の暮らし方ではなかろうか?

 

これまでの考古学なんから言えるのは、以下の通り。

A■最大級の生活跡で200人程度。300人を超えない。
つまり、人間の他人の認知能力はおそらく200人程度ではなかろうか。顔と名前が一致するのは200人ぐらいじゃないか、ということである。

 

B■一般的には、2~3世代の家族単位で移動して暮らしていた。
ジャレド・ダイアモンドなんかの文化人類学的見地からは、おそらく20人程度の血縁集団で移動生活していたのではないかと思われる。


平均寿命は20歳以下。日本の縄文人の平均寿命は17歳程度であるという。
子供、子供を育てる母親、狩猟する大人たちで構成されていたものと思われる。

 

C■狩猟生活
木の実やキノコ、魚、虫、ウサギやネズミ、あるいはシカやイノシシなんかをとって食べてたようである。そもそも人間の数が少ないし、自然が十分に豊かであれば、ある程度獲物をとりつくした後に移動すればよかったと思われる。
一生を同じ地域で暮らすという定住生活は農耕以降の文化だと考えられている。

 

以上を踏まえて、人間として自然な生き方の指針がわかるのではなかろうか。
無意識含めた生物のレベルでの欲求を考えるのに役立つ気がする。

 

・一人暮らしは不自然。いまでいう大家族暮らしこそが自然。

 

・生活・会社等の組織において200人を超えてくると把握できないのが当たり前。
携帯に登録した電話番号でも200を超えてくると人物像があやふやになってくるはず。300人を超えると無理だと考えるべき。

コイツ誰?みたいな話がでてくる。

 

ちなみに経営学組織論的見地からいえば、誰が何をやってるのかを常に把握できるのは最大7人程度といわれる。
会社の組織でもおよそ最小単位であろうし、軍隊でも小隊レベルとなる。無論、仕事の内容にもよるとは思うが、10人を超えてくるとコイツ今何してるんだ?みたいなコトになるのが普通と考えるべき。
ということは、リーダーは最低10人に1人は必要。

 

仕事の話だけでなく、遊びでも7人ぐらいを超えてくると、詳細は把握できない。
10人を超えてくると、今、誰が何やってるのかは把握できないのが当たり前と思えばよい。
飲み会とか、遊びで集まる場合も7人以下の方が一体感がある。10人を超えてくると2グループに分けるべきだろう。

 

・定住は不自然。
ただ現実に移住は不可能なので、旅行というのは人間の本質的気分転換なのかもしれない。
ただし、いわゆるパッケージ旅行は原始的とはいえない。
現在の旅行は、18~19世紀ごろのヨーロッパにおけるロマン主義によるといわれる。
人類史をふまえれば、単に場所を変えて生活する体験、というレベルが正しいのではないか。

 

・少し前に流行した炭水化物抜きダイエット…今も続いてるのか…?は、この話の理屈にあってる気がする。野生で採取できる…というか食えるレベルの炭水化物はあまりないから。

というわけで、俺も挑戦したが、これはまず、コメ・小麦がないと満足感がない。すぐ腹が減る。おかずばっかりで味が濃い。カネがかかって仕方がない。う~ん…もはや現代人ではいかんともしがたいのか。。

 

いや、そもそも一日3食というのは極めて近代的習慣である。
"腹が減ったら食う"というのが本来のはずだ。

ただし、これが難しい。飯屋がそもそも午後3時とかに空いてない。
さらに家族と同居してると難しい。