U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面

森達也の作品は面白い。
俺は森達也と政治信条は全く異なるが、彼の作品は興味深い。


オウムを描いた映画「A」「A2」さらに麻原彰晃を描いた著作「A3」は傑作だし、耳が聞こえない作曲家、佐村河内守を描いた「FAKE」を見たとき俺は声を出して笑った。

 

そんな森達也の新しい本が出た。相模原障害者施設殺傷事件が今回のテーマだ。

 2016年、津久井やまゆり園で植松聖によりで障害者19人が殺された。
犯人の植松は障害者へ差別が原因だと報道されたが、本当の動機は何だったのか。

 俺は、当初の報道でしか事件を知らない。

重度の障害者について殺した方がよいとする植松の犯行は、そのまま妊娠中絶の問題とイコールだと当時の俺は考えた。

 

現在の日本では赤ん坊が生まれる前に、遺伝的障害があるか否かを判断することができる。そして、その着床前診断で障害だと判断された胎児のほぼ100%は中絶される。これはアメリカでは宗教的な大問題になっているが、日本では問題にはなってない。

 

もし、本当に日本が少子化を食い止めたいするなら、中絶を法律で禁止する方法もある。
若者による望まぬ妊娠が多いが、着床前診断の中絶もやめさせれば子供の数は増える。
ただし、少子化問題とは、労働者不足・納税者不足を補うための考え方なので、労働はおろか自力で食事もできない人を養うことにもなり、逆に社会福祉の費用はかさむ可能性がある。
…この考え方は植松と同じではないのか?

 

そして、なぜ出産前なら命を絶ってもよいが、出産後なら殺人なのか?
この問題を直視する報道は一切俺はなかったように思う。

 

少し問題はズレるが、重度障害者を殺しても良いか否かという問いに、まともな回答だと感じたのはテレビ東京5時に夢中!」で全身ヒョウ柄のタイツを着た岩井志麻子のコメントだった。

自分が若い頃、障害者や老人なんかを見て、なぜ彼らはそこまで無力なのか不思議だった。しかし、年を取るにつれ、いずれ自分もああなることがわかってきた。いずれ自分は無力になるのだ。

 

中絶の疑問を、森達也はどう考えているのか知りたかったので読んでみたのだが、その話はほぼ触れられていなかった。

 

本書は、先のオウムの麻原彰晃を描いた「A3」と同様、死刑と精神障害にマトを絞った本である。
刑事事件における精神障害とは何かについては興味深い一冊である。

 

植松は事件の前に、植松は総理大臣に手紙を手渡ししようとして断念、衆議院議長に手紙を渡したのだが、その全文が本書に公開されている。
第三次世界大戦を防ぐために障害者を殺します…という全体的にもなかなかキてる内容ではあるが、少し唐突に

UFOを2回見たことがあります。私は未来人かもしれません。

などという文章が出てくる。
その手紙を含め、植松の言動には明らかに常人とは異なる点があることを明らかにしており、精神科医その他、何人かのインタビューを含めて植松は精神障害者であるとする。

 

つまり、著者である森達也の主張は"植松は精神障害である。従って刑法39条=キチガイ無罪により、少なくとも死刑は無い"

 

もともと森達也は強硬な死刑反対論者であるし、かなりの左翼論者でもある。
本書でも、スターリン毛沢東と同列にトランプ大統領と安倍首相が語られるので、推して知るべしである。(せめて自国民を数万人規模で粛清しないとスターリンと同列扱いするのは無理すぎでしょう)

 

森は、刑法に従ってキチガイは無罪だろ?と語りかけていると同時に、キチガイか否かの境界線はあいまいだし、そもそも殺人を犯す瞬間は通常の人間の精神状態はありえない。異常であろうと指摘する。それはその通りだ。

 

ただ、森の死刑を回避するために刑法39条を厳格に適用せよ、という主張は欺瞞を感じる。
国家が刑法39条を厳格に守るべきだと主張する一方で、死刑は一貫して反対である。
森達也は法を守ろうとしてるのか破ろうとしてるのが一貫していない。

一貫しているのは死刑反対の一点。
そもそも森は法治国家の是非…法による統治が良いのか悪いのかは考えてないように見える。おそらくそもそも法治国家以外の選択肢は無いと思っているのではないかと思われる。左翼だし。

 

ちなみに、重大犯罪おいて加害者の精神障害減刑あるいは無罪というのはほとんど無い、ということを、俺は見沢知廉の一連の著書で知った。

刑務所の中見沢知廉はほとんど意思疎通が無理なレベルの服役囚=精神障害たちと会ったことを描いている。
また、山本譲司も同じく獄中で多くの精神障害者に出会ったことを書いている。彼らは社会で生きていくことができない、というよりも社会のルールが理解できない。そんな彼らも刑務所に行けば一日3食メシが出ることは理解できている。
なので、もはや刑務所は精神障害者の受け皿となっているのだ、と指摘している。


G監督は、森達也を評して「すごく暴力を振るいたいので作品つくってるんじゃね?」という指摘はスルドイと思う。

おおよそ人間は自分の興味がある分野に行く。森達也がここまでオウムに固執し、植松を扱う根底においては、暴力・狂気への渇望があるのではないかと思わざるを得ない。
その気持ちは、俺はわかる。
俺は狂気に関心がある。俺が澁澤龍彦とかpanpanyaが好きなのは合理性を超えた狂気的魅力にあふれているからだし、合理的に考えようとして集団狂気となった左翼思想にも興味がある。

 

森達也は、植松を治療すべきだとする。
確かに治療して原因がハッキリすれば犯罪抑止につながるだろう。
しかし、もしそれが遺伝的要因なら森はどう考えるだろうか?
橘玲言ってはいけない」だったか「もっと言ってはいけない」だったかに、犯罪は遺伝するというトピックがある。人権教育を受けた人なら真っ赤になって怒り出すような話だが、橘玲は極端な暴力的傾向は遺伝との相関関係があるとの科学的見解を述べている。

 

また、治療できなければどうするのか?そもそも治療は誰がどう判断するのか?
もし、無罪放免した後、再犯した場合は誰がどう責任をとるのか?

森がここらへんをどー考えているのかは、本書からはわからない。

 

犯罪被害者の気持について森もよく考えているとは読めるが、結局は死刑反対が先なので議論が先に進まない感はある。

実は、というか、近代国家の基本的な仕組みとして弁護士も裁判官も精神科医も誰も責任を取らなくて良い。
このいわば不条理があるからこそ、昨今、被害者救済が言われている。

 

俺はそもそも刑法39条は反対である。無くした方がよいと思っている。
そして、死刑は存続してもよいと考えている。

ただし、森と同じく冤罪はなくすべきだ。