システム論 その4 自己組織

前のブログの組織論、なんかモヤっとしてワケわからんかったですかね?
今回はもっとワケわかりません。

 

組織論の続きなんですが、ネットワーク組織云々のあたりで自己組織という話が出てきます。

今田高俊「自己組織性―社会理論の復活」

自己組織性―社会理論の復活

自己組織性―社会理論の復活

  • 作者:今田 高俊
  • 発売日: 1986/05/01
  • メディア: 単行本
 

 自己組織とは何か。
それは、制御するもの・中心となるものがないのにバラバラだったものがひとりでにまとまっていくこと、です。

 

それって、前に冷めたコーヒーを温めたら、バラバラの動きをする水分子らが大きな流れとなる=対流が起こる、ってアレ?散逸構造理論のこと?という指摘はスルドイ。
それを自己組織化といっても別に間違いではありません。

 

が、今回のテーマは人間活動であって、社会的、文化的なものです。

 

例えば日本語の意味って時代によって変わっていきます。
G監督も指摘してましたが、「全然」という言葉があります。これは「全然~無い」という否定文のみ使われるのが正しい日本語だ、というコトになってますが、明治時代は肯定文「全然~ある」という言い方をしてたことが知られています。

 

あるいは、自分を意味する言葉(一人称代名詞)の「私」「僕」「俺」もしくは相手を意味する言葉(二人称代名詞)の「あなた」「貴様」「お宅」など、多数あるうえに時代によって使われ方が変わっています。

 

このニュアンスの違いはわかるけれども、なんで時代が変わると意味が変わってくるのか?と言われると説明ができません。

小説「舟を編む」なんかでもわかるように、日本語は常に変化していて、辞書の内容も時代によって変わってきます。

 

なので、日本語のルールは明確に決まってるわけではありません。
日本語のルールはあってないようなもの…制御するもの・中心となるものは無いのに、日本語全体としてまとまりがある=自己組織といえる、のではないか?という話です。

 

社会や文化というのはキッチリとしたルールが無いことが普通で、境界もモヤ~っとしてます。

 

伝統文化でも音楽でも会社組織でも何でもいいんですが、そーいう社会や文化と呼べるモノ・雰囲気は何でできてるのでしょうか?

これを機械論的に分解しようとすると、無理が出てきます。
そこで、部分に分解できない特性を持っている=システムとして考えようというワケです。

 

モヤ~っとしてワケわからんですか?まあ…そうですよね…

 

そうですね…仮に G監督らしさって何?ということを考えてみましょう。

 

G監督らしさ、というのは一般的には他人が持つG監督のイメージのことですが、これを決定づけるのはG監督の言動です。G監督らしいかどうかはG監督自身が決めるはずなんですけど、俺とか某HがG監督本人に向かって
「それってG監督らしく無い!」
と言って、G監督自身が言うコトが変わってしまうのはよくあります。

 

そもそもG監督らしさ、というのはあるのか?といえばある。
しかし、アリと無しの境目はかなりモヤ~っとしてます。

さらに、それを決定づけるはずのG監督自身が、G監督らしさとは何かを考えた結果、行動を変えてしまうというコトがありえるとはどういうことでしょうか?

 

G監督らしさに明確なルールはありません。G監督自身を含めて周囲の人間の評価なんですが、何も客観的な指標がありません。自分が自分らしいか?といういわば自己矛盾をG監督が抱えることになります。


G監督が考えるG監督らしさというのは主観に過ぎないのですが、自ら客観的に判断して、意図的に変える、ということになるのですが、その結果も所詮主観にしか過ぎません。

これが自己組織性と呼ぶ特徴ではないかと俺は考えてます。

 

会社組織を考えたとき、この会社っぽい、コレはこの会社にとって良い、コレはこの組織にとって悪い、という価値判断は所詮主観レベルですが、その判断を行うメンバー同士が交流を何度も行うことで、結果的に会社ごと、組織ごとに何らかの特徴を持ってくる、ということです。

 

…ここまで読んでいただいて何なんですが、

 

いや、お前何言ってんの?
この議論、何か意味あんの?

 

という感想を持たれてませんかね?いや、そのご指摘は正しいですよね、という話が次回。。