きかんしゃトーマスをみてると、機関車たちは皆"役に立つ"ことを至上命題としている。
誰の役に立ってるのかといえば、鉄道経営者トップハムハット卿の役に立つことであり、トップハムハット卿は駅の利用客の役に立つことが存在意義である。
トーマスたちは、究極的には駅の利用客の役に立つこと=人生(?)の意味である。
え?そりゃ…トーマスはまあ機関車だし…
フランクル『夜と霧』に、ナチスの強制収容所であと数日、数時間で殺される人の人生に意味はあるのか?という場面が出てくる。
もうすぐ処刑されるという人は、自分の人生に意味は無いのではないか?と著者に問う。著者は、身近な人間に祈りを捧げよと呼びかける。
ただ、処刑される人はすでに家族も友人も皆いないという。
それでは、直前に収容所で見かけた少女の幸せを祈れとすすめる。
あなたの人生は、その見ず知らずの少女の幸福を祈ることに意味がある、というのだ。
感動的である。
感動的であるのだが、同時に違和感はある。
"人生には意味があるべき"という思考は実にキリスト教らしいからである。
神が人間をつくったのであれば、無意味につくることはないだろう。神には何らかの意思があるはずだ。ただし、その意思は人間の理解を超えたものである。
…という解釈は、生まれたこと自体に何らかの意味があるという解釈になり、そこから、なぜ神様はその意味を教えてくれないのか?という遠藤周作っぽい思考になりうるのはわかる。
俺としては、人生に意味がある"べき"という機能的思考よりも、先に人間としての構造的本能があるとしたほうが納得がいく。
つまり、人間=ホモサピエンスは群れで生活する動物であり、食欲や性欲と同じく群れたいという欲求がある。
その群れは人類学的には20~30人ぐらいらしい。仮に2人の両親から子供が6人程度としてひと家族8人前後、そう考えると群れのなかでの家族は2~4家族程度。
それを現代として考えると、群れの中で意思疎通ができる同年代の人数は、2~4家族の親として…つまり自分を除いて3~7人ぐらいであろう。
その5人前後の気の合う群れ=仲間どうしでの意思疎通こそが"人生の意味"ではなかろうかと最近考えるのである。
※その5人ぐらいの仲間は、さらに別の仲間に属することもできる。
ただし、それもある程度限度がある。人間1人が仲間と感じるのが5人前後なので最大5グループ程度ということになるが、完全にバラバラのメンバーがある一人を介して群れることの方が珍しいはず。
昔は仲間同士が近くにいないとコミュニケーションがとれないし、狩りも収穫もできない。
ただし現代であれば仲間同士物理的に近くにいる必要性は無い。
無論、仕事仲間というのは最も同じ時間を過ごすメンバーになりうるので仕事=会社=人生の意味になりやすい。
しかし、仕事=金銭面においては別のグループを形成して、そのメンバー間の生活基盤を共にしない方が直接的な利害関係が無い分だけ精神的に気楽につながりやすいようにも思う。
その5人前後の仲間同士で何をするのか?何をすれば人生の意味を感じるのか?
というのは重要な気がして、要するに仲間同士で共通の経験をして、記憶を共有することである。