i-新聞記者ドキュメント

某Hが微妙だけど見ろよぉ!とゆーので森達也「i-新聞記者ドキュメント」見る。


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ナルホド、某Hが"微妙だった"という感想もわかる。

パッと見た感じは東京新聞の望月衣塑子が主役のドキュメンタリーなのだが、どんどん話がズレてくるからである。

 

当時官房長官だった菅を悪、望月を善として描こうとしつつも、中盤から監督の森達也が官邸になぜ入れないのか?という話が割り込んできて、グダグダしはじめる。

 

辺野古基地問題はまだわかりやすく演出されているが、前川喜平や伊藤詩織、籠池夫妻らに関して説明は無いので、事前にこれらの人物を知ってないと多分わからないだろう。

望月を介して当時の事件の中心人物を次々と映すので、これ…何の話だっけ?という感じにもなる。

 

要するにこの映画は森達也プロパガンダなのだ。

 

常々、森達也は公正中立な報道などありえない、と明言しているが、俺もその通りだと思う

本作はいわゆる左翼、リベラルの立場を表明している森達也プロパガンダ映画としてみれば、すべての内容にスジが通っている。

望月衣塑子は、たまたま森達也の身代わりとして映っていると見ればわかりやすい。

 

しかしながら、森と望月には決して相いれない違いがある。
それは、フリーの森と、サラリーマンの望月の立場の違いである。

 

そもそも論として言うのも当たり前すぎてアレだが、
報道は商品、売り物、カネをもらってなんぼである。
望月がなぜ新聞記者として記事が掲載できるのかといえば、東京新聞の読者がカネを払ってでも読みたいだろう、と東京新聞側が判断したからである。

 

民主主義のためとか人権のためとか云々で報道したいなら無料でやればよい。
本気で中立公平というならカネを受け取っては公平性に欠けると思わないのか?

 

広告をとるなど単に資本主義そのものではないか。
最近はどの新聞社・テレビ局も不動産収入が多くなってきているが、それも民主主義のためなのだろうか?

 

おそらく森はカネにならない報道などクソだということをAシリーズで痛切に感じたはずだ。名作映画「A」「A2」のAシリーズは結局カネにならず、ついに3作目「A3」はカネがなくて映画化できずに書籍となった。

 

本作の映画は、森や望月をすでに知っているような政治的立ち位置の顧客層に向けての作品である。
なので、こまかい説明などいらないのだ。
森も望月も知らない人、あるいは嫌悪感を抱いている人はそもそも見ない。

 

なぜ望月が官邸に入れて森が入れないのか?それは記者クラブ制度があるからである。
その記者クラブの説明は一応はされているが、歯切れが悪い。
なぜなら、記者クラブは新聞屋の利権である。そこをツッコミはじめると、東京新聞産経新聞も読売も毎日も朝日も敵に回す。森はフリーなので記者クラブ制度にケンカを売ることで視聴者から喜んでもらえるが、望月は記者クラブ側である。
望月は森の批判する東京新聞の利権を批判できない。

 

警察官に囲まれながら官邸に入る望月の後ろ姿と、待ちぼうけを食らう森との対比が演出されているが、これで望月と森が敵対関係に見えてしまうあたりが妙に本作のちぐはぐさを感じる要因でもある。

 

記者クラブ制度を批判したいなら、日本の記者制度を批判せねばならず、日本独自の企業内労働組合も批判せねばならず、泥沼になるのがわかってて描かないのもプロパガンダだと思えばスジも通る。

 

またそもそもの話になるが、報道、というのは少なくとも日本では江戸時代から政治的である。要するに相手の悪口を広めておとしめるのが瓦版=報道の役割であった。
誕生以来、報道は常にビジネスであり政治的である。

 

再度繰り返すが、新聞やテレビ、ネットのニュースも含めて、これらは単に商売である。
広告主、読者・視聴者に向けてサービスを提供し、カネをもらうという商売だ。
ジャーナリストに特別な倫理観・使命云々がある、あるいは必要だと思っている連中は、単に勘違いしたエリート意識である。

 

…しかし、最後の方のアニメ、いる?

完全にドキュメンタリーを放棄して、なんか筋肉ムキムキのマッチョに変身して周囲を威圧するアニメって…「森は暴力振るいたいだけ」というG監督のセリフを思い出さざるを得ない。
アニメは無かったほうが良かったと思うんだけど。。