フランスパン表記がバゲットになってる昨今

「日本のパンはどれも甘いですねぇ」
台湾人に言われて、ハタと気が付いた。

 

俺は食パンがキライなのは妙に甘いからだ。メシにならない。
最近流行りの高級食パンはさらに甘い。


しかし、フランスパンは食える。メシでもイケる。
何故だろうと思っていた。

 

その台湾人のセリフが気になって、
はじめてスーパーで食パンとフランスパンの原材料を見比べてみた。
食パンは砂糖が入っているが、フランスパンは砂糖が入ってない。

 

…という話はさておき、

 

人生に意味はあるか?問題を引き続き考えている。

「夜と霧」の著者、フランクルによれば

例えばクラッシック音楽が好きな人が、今、オーケストラの演奏で感動に打ち震えているとしよう。その人の耳元で「生きてきてよかったか?」と聞けば、YESと答えるだろう。 

 

ここ最近、子供を否応なしに観察しているが、子供は多幸感にあふれている。
中島らもいわく、

子供と酔っ払いは似ている

さらに、

幸福とは脳内麻薬によるもので、外部から麻薬を摂取するのも同じだ。

という話につながる。

言わんとすることはわかる。
が、そこまで幸福が単純とは思えない。

 

幸福と感じるか否かは生物的な理由が根本にある。
おそらく、幼少期はそういう脳の構造なのだろう。
しかし成長するにつれて無根拠の多幸感は無くなっていく。

 

人間は群れで生活する。
なので、人間関係が幸不幸の大きな要因となっているのもわかる。

そして知能が否応なく発達してくると幸福である"理由"が必要となってくる。

 

子供を観察していると、時間概念の理解は難しいようだ。
"この前(まえ)"という単語が過去を意味しているのは理解しているようだが、いつぐらい前か、という理解はかなり難しい。
半年以上前と昨日ぐらい離れていれば"ず~っと前"と"少し前"程度で違いは理解できるが、3日前と一週間前程度の差は認識が困難なようだ。

 

それでも過去はまだマシで、
まだ経験していない"未来"の理解はより難しい。
30分後、2時間後、明日、一週間後…という未来の時間感覚の理解は極めて困難である。

 

母親がトイレ等で少し場を離れるだけで幼児がギャン泣きするのは時間感覚が無く、保護者が離れることに対して"すぐ戻ってくる"のか"永遠に戻ってこない"のかは判断できない。なので、最も危険な"永遠に戻ってこない"に対して反応しギャン泣きする…のではないか、という理解は正しい気がする。

 

その幼児らにとっての幸福とは何か、と考えると"今を楽しむ"ことにつきる。
過去はともかく、未来についてアレコレ思考する様子は無い。
そもそも未来がよくわかってないのだから。
なので、ある意味、幼児は快楽主義者である。
エピクロスから澁澤龍彦が提唱した快楽主義を体現しているのが幼児っぽい、ような気がする。

 

青年の場合、進学や就職、あるいは結婚等で数年間程度の未来に敏感になる、というよりもそれより先が予測不可能である。
従って、青年の幸福は社会に受け入れられる、成人になれるか否かという数か月後、数年後の近視眼的な未来=幸福となりえる。

 

壮年となり、おおよそ社会で自らの立ち位置が理解できてくる。すると、このままだと将来、自分はどのような晩年を過ごすのか、ボンヤリとながらも予測できるようになる。
こうなると、幸不幸の判断は理性的なモノになる。
つまり、理屈で考えた目標達成的な行為…社会正義であるとか、道徳的とか、あるいは宗教的な目的を達成すること=幸福である"はず"だ…という心境になってくる。

(これは逆説的に目標も無く自堕落な快楽も含む)

 

…とここまで考えると、幼年期以降の幸福含めて生きる意味は「時間に左右される」

 

例えば、1万年単位で考えたとき、1万年前の人類の記録は無い。したがって、個人の生など全て無意味である。
千年単位で考えた場合、キリストとか釈迦とか超天才の記録は残るが、それ以外の人間は無意味と言っていい。
百年単位で考えた場合、家族の記録程度は残っているだろう。よって、個人の生きた記録ははじめて意味を持ち始める。
十年でおおよそ自分自身が回想できる時間になる。ちなみに数学者の森毅は、人生20年でリセットすべきではないかと提唱した。
1年間、1時間と短く考えていけば、1時間後の未来に向けてやることが人生の意味となりえる。

 

一日以下の時間間隔ともなれば、日常生活…洗濯や掃除など日々の生活の中で幸福を見つける…という、ある意味、精神障害者療養施設的な思考になるが、それはそれで十分に人生の意味となりえる。

 

そして逆にたどっていけば、一時間、一日、一年と時間を重ねていくことにより、我々は千年後に誕生するキリストや釈迦級の超天才のために社会をつないでいる存在ともいえる。

 

…などと考えていると、俺の思考ってストア派なんだな…と、「読書大全」を読んでいて気が付いた。

 う~ん、著者は本物の"読書家"だと感心する。