後期■序文
やっと前期を終え、後期となった。
ただ、この序文に本書の神髄がある…ような気がする。
かなり長いが、そのまま引用してみる。というのも、これ以上俺がまとめることができないので。。
中国において、古来、学問の重要な対象とするものは、人間の社会生活であった。したがって政治・経済・法律・道徳などの社会的事実に重点をおき、たまたま形而上学的研究にさかのぼることがあっても、その出発点は人間の社会生活、すなわち人と人の関係にあったのである。この点は、ギリシャ初期の思想が主として人間の自然生活、すなわち人間と自然の関係に重きをおき、印度のそれが人間の宗教生活、すなわち神と人との関係から出発しているのに対して、中国思想の特徴の一つと言えると思う。
また、中国には、今日のいわゆる哲学の体系というものはない。少なくとも中国固有の思想には、それがない。もし中国思想の中において強いて哲学的なものを求めようとすれば、社会思想、すなわち社会組織の根本に触れたもろもろの思想があるのみである。宗明時代の理学は、外来の仏教思想の影響を受けて、形而上学的色彩がやや濃厚であるが、要は社会思想の根本的説明にほかならない。
従来の中国哲学史というものは、中国思想の中から、ギリシャ哲学や印度哲学に類似するもろもろの思想を抽き出して羅列したものにすぎない。このようにすることは、全体としての中国思想を破壊するものであって、これによって中国思想の神髄をつかむことはできない。私がここに中国哲学史とせずに、中国思想史とするゆえんは、中国思想を、そのあるがままに、全体として見て行こうとするためであって、従来に慣用せられた中国哲学史と多少その内容を異にするものがあるためである。
…とまあ、このような次第である。
形而上学的って何?という説明はいささか難しいけど、絶対的な真理みたいなものがどっかにある、あるいはそれを想定することで世界の成り立ちを理論的に説明するという思考方法…かな。
まあ、そういう哲学は中国に無かったため、無理やりヨーロッパやインド哲学の似たところを引っ張り出してきて説明する人もあるが、著者は"そんな真似事はしません!"というのである。