はじめての言語ゲーム

橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」読む。

ゲーム、と聞けば、普通はスマホやトランプ、あるいはスポーツなんかの遊び=ゲームを思い浮かべる。

次に数学の"ゲーム理論"を思い浮かべる。

このゲーム理論については狂気の天才数学者ナッシュを描いた映画「ビューティフル・マインド」なんかで有名かと思う。ちなみにドーキンス利己的な遺伝子」は遺伝という生物学的特性を数学のゲーム理論で読み解いた本で、今ではゲーム理論は多種多様な分野に応用されてる。

 

で、あとひとつが哲学分野で、ウィトゲンシュタインの"言語ゲーム"である。
俺ぁこの言語ゲームを正面切って?調べてこなかったのが気がかりだった。

 

ず~っと昔、システム論について調べたとき、チラっと脳裏をかすめた程度で、言語ゲームとシステム論がどう結びつくのか?までは考えてなかったが、今回、本書は入門書の…さらに前段階レベルだけどもなんとなく目星がついた気がする。

 

で、本書の内容はとゆーと、第一章はウィトゲンシュタインの生涯をざっと紹介している。
かなりの金持ちのボンボンに生まれたが近親者に自殺者が多い。
さらに第1次世界大戦と重なって自分も兵役につき、まわりがどんどん死んでいく。
さらにユダヤ人だったことからナチスに追われる身となり、何重にも歴史の荒波にもまれた人生だったようだ。

 

で、突然、次の章では数学の自然数有理数・実数の話になる。
 自然数とは、1,2,3,4…と、フツーに1つずつ数える数で、無限にある。
 有理数とは、分数で表現できる数の全てで、無限にある。
 実数とは、分数や小数点も含めた数の全てで、無限にある。
さて、自然数と実数とどっちが多い?
と言われたら、いやいやどっちも無限だから、答えは同じぐらい無限でいいんじゃね?と思う気もするが、ゼロと1のあいだにも無限に小数点がある実数の方が多くね?と言われたら、そんな気もする。


では、無限にある自然数と無限にある実数のどっちが多いのか証明してください、という問いに、カントール対角線論法の話が出てくる。

 

…え…講談社現代新書のレベルでそんな…新書なんてインテリにあこがれる馬鹿しか読まない本だと思ってたのに…まさか大学レベルの数学の話かよ。。しかも新書の1ページ程度でサクッと証明の説明が終わってて、なんのこっちゃ全然わかんねぇよ。。

 

あ、でもコレ、マンガで読んだのを思い出した。絹田村子「数学であそぼ」にカントールの話があった。で、読み返した見たら肝心の部分の前で説明が終わってた。

結局、その本書の1ページ分、カントール対角線論法をネットで調べて理解するのに丸一日ぐらいかかった。

 

ウィトゲンシュタインの哲学は前期と後期に分かれる。言語ゲームは後期なんだけども、ウィトゲンシュタイン哲学は前期に書かれた「論理哲学論考」が特に有名だろう。
その「論理哲学論考」の内容は短くて、段落ごとに番号がふってある。内容はwikiにもざっと描いてあるが、普通に読んだらなんのこっちゃ全然わからん。
ただし最後のセリフ「語りえないことについては、沈黙するほかない。」が妙にカッコイイ。

 

この「論理哲学論考」は、無限にある世界のあらゆる物事と無限にある言葉との関係性を数学の理屈であらわしたもので、それがカントール対角線論法と同じく数学の集合論を使っているわけですよ、と橋爪大三郎は説く。

 

あ~…そうなんだ。。

 

で、「論理哲学論考」において世界のあらゆる物事と言葉はパラレルに対応するんだよ、と。なので、そもそも思考できないもの=言葉で言い表せないものは存在しないものと同じで、同じく存在しえないものは言い表すことができない、よって「語りえないことについては、沈黙するほかない。」

 

俺としては、西洋思想の香りがプンプンするなぁ、と。
思考・考えられること=言葉で言い表せられることであり、
世界=自分が認識できることのすべて=思考のすべて=言葉で表現できるもの
というのは違和感がある。
思考を超越した世界があるような気がする…という東洋思想が俺の根底にあるから。

 

まー俺の感想はともかく、
で、ここで大きな問題がでてくる。
その"世界のあらゆる物事と言葉はパラレルに対応するんだよ"と上から目線で言ってる奴自身は"世界のあらゆる物事"の中に入るのか?という問題である。
それは世界のあらゆる物事の外側から眺めてる奴じゃないと判断できなくない?と考えられるからだ。
言い換えれば、"全ての要素を含む集合"があるとして、その"全てを含む集合"だと定義づけてる要素は、その集合に入ってるのか?という問題。

 

結論からいえば、矛盾する。
この矛盾が後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームを形成する核となった、らしい。

で、その言語ゲームって何?という説明は多少ヤヤコシイ。

 

本書の例では、机と机で無いモノの違いってどうやって判断してるのか、を考えている。

木でできているのが机か?と言われたそうでない机もある。
足が4本あるのが机か?と言われたらそうでない机もある。
さっきまで机じゃなかったのに、コレを机としよう!とすることもある。
…んじゃ、机って何だ?と言われれば、各個人にモヤ~っとしたイメージがある。

 

その机のイメージって何だ?といわれると、それなりに辞書っぽい説明はできるが、世の中にあるすべての机を説明しつくせるものではない。いくら言葉があっても全ての机を説明しつくすことはできないが、コレって机だよね?と誰もがわかる。

 

さらに、机のイメージ、机の意味は時代で変化していく。
まず、自分が生まれる前から机はあった。
つまり、自分を取り巻く社会がすでに机かどーかを判断するルールがあるということになる。
なので、子供であった自分は社会のルールを理解することで机だと理解できる。

でも、百年前の机、千年前の机、1万年前の机は少しずつ違う気がする。
それは何かエライ人がコレが新しい机だ!と発表したところで、皆が受け入れないと机にならない。誰か特定の人がルールを決めるのではなくて、皆がなんとなくそうかな~と変化させていくものである。
この変化しちゃうというのが言語ゲームの重要なところである。

 

俺なりに言語ゲームをまとめると、
世界のルールは、自分がいる前からある。自分はそのルールを理解することはじめて世界がわかる。ただし、そのルールをどのように理解しているかは他人にはわからない。しかもルールは固定されたものではなく、ルールが変更できるルールによって、どんどん変化していく。

 

ーーーーーここは独り言ーーーーーー

ハタと思い返すのが、システム論における自己組織性。

torisoba-bekunai.hatenablog.com

著者の今田高俊は、要するに科学って何だ?みんな科学、科学ってわかったように言ってるけど、それぞれ言ってること違くない?化学や物理学なんかの自然科学分野、心理学・社会学の人文科学って全然意味違くね?という問いからはじまる。
つまり、先ほどの「机」が「科学」に置き換わっているワケで、科学哲学の言語ゲームというワケだ。

 

で、その皆が科学っていってる考え方は、時代と立場によって微妙に異なっているんだよ、と指摘する。
んでもって、ここら辺あたりの社会学も科学といえる境界線の内側じゃね?と提示すると同時に、まあ科学という厳密な学問でも、自らのルールによって意味が変わっていくことを理解しようぜ、という内容である。


思い出すのは、自己組織性の最後に登場する螺旋図。表紙の絵にもなってる。縦軸も横軸もなにも書いてない螺旋図が一体何を意味するのかよくわからなかったが、本書の言語ゲームにおける1次ルールと2次ルールの概念…つまり螺旋図の横軸が1次ルールで縦軸が2次ルールだと解釈すればいいんじゃね?と、何かわかった気がした…!十年以上疑問に思ってた謎がなんか解けたような気がする。。

ーーーー独り言はここまでーーーー


橋爪大三郎の本って、むしろ余談が魅力でもある。

 

ソ連が崩壊して、資本主義vs共産主義の思想上の戦いは終わった。次にポスト・モダンがやってきた。デリダとかフーコーとか。彼らポストモダンの大きな枠組みは、資本主義・自由主義への批判である。つまりは左翼思想の残りカスみたいなもんだよ、と。

 

いや~、さすがは橋爪大三郎御大。それぞれの思想、特にポストモダン言語ゲームになぞらえて、それぞれ蛸壺化してしまった思想は言語ゲームの構造で理解し、変化すべきじゃね?と説く。

 

さらに価値相対主義って要するに無責任じゃねーかコノヤロウ、と。逆に責任をもった価値相対主義…多様性を尊重すべきという奴は、全ての人間に暴力を伴ってでも多様性を強要する。そこの矛盾をどう回避できるか考えろコノヤロウ、と。

 

俺が何故エコロジーが嫌いか?というと、彼らは善意で暴力をふるうからだ。

 

あと、江戸時代から明治維新にかけての余談も楽しい。

 

江戸時代に封建制度の根本思想として推奨された朱子学は、そもそも徳川の江戸幕府の仕組みを否定するものだという指摘である。

朱子学はもともと日本の思想ではない。宋の時代の科挙、つまり試験の結果がよければ身分が上がる仕組みをOKだとしていた思想である。
江戸時代に科挙みたいな試験制度は無かった。ここに江戸の封建制度朱子学にひとつ矛盾がでてくる。

 

そもそも封建制度は道徳による政治である。最も道徳心をもったヤツがトップになることができる(なるべきだ)、というのが封建制度の要。


だとすると、天皇と将軍の関係ってなんだ?
つまり、天皇ははじめ最高の道徳心を持っていたのでトップになっていたが、ある時点で徳を失った。(笑い話だが、理屈の上ではそうなる)かわりに徳をもった将軍に政治をまかせてるんだよ、という理屈になる。

 

ならば明治維新ってなんだ?
というと、天皇に最高の道徳心が戻ってきたので将軍から天皇にバトンタッチする運動だったという理解になるわけだ。

おお~、なるほど!面白い!