道徳についてのクソ長い話 その3

椅子の上に"偶然にも"乾電池が立てて置いてあって、座った瞬間に"偶然にも"ケツの穴にすっぽりとハマって抜けなくなったのだと訴える患者は全世界的にみられる、というレポートを読む。

うむ、世界はひとつだな!とホッコリしたのは俺だけだろうか。

 

…ケツの中の乾電池はともかく、道徳の話である。

 

先日、道徳とは社会ルールだと言った。
んじゃ、社会ルールってどうやって決まるのか?といえば、現代では文化を土台にした話し合いで決まる。

 

何を話し合うのか?といえば、メンバー間でどこまで自由にふるまえるのか?である。具体的には何をしたら駄目なのかを決める。殺人は駄目だよとか。

 

言い換えれば、皆で話し合った「他人に迷惑をかけない範囲の自由」=「社会ルール」であり、その社会ルールを守ろうとするのが道徳である。

 

その社会ルールを守ろうとすればするほど、つまりは道徳的にふるまおうとすればするほど、自分の自由を制限し他人の自由を認める。
なので、道徳とは自分の欲望を許さずに他人の欲望を許そうとする。

 

そこで奇妙な逆転がある。

 

自由とは欲望のままに生きることであり、それは悪である。
道徳とは、自分の悪を認めないことで他人の悪を実現させようとするワケだ。

 

…以上が、ホッブズによる社会契約説を俺の解釈を交えて説明したものである。

 

今のところ、俺はそれ以外の道徳の説明がしっくりこない。
道徳ってのは主観的なものだとするニーチェなんかの説がイマイチ理解できない。

 

まずは主観的な快・不快は欲望とどう違うのかが俺にはわからない。
それに道徳的だとゆーのは単に道徳的だと自分が思ってるだけじゃね?という(独我論)レベルからどーやって抜け出しているのか今のところ俺は理解できてない。

 

それを踏まえて、俺が気になる殺人犯…「附属池田小事件」の宅間守、「相模原障害者施設殺傷事件」の植松聖、今回の安倍晋三襲撃事件の山上徹也の道徳性について考えてみたい。