先日、映画館で見た「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」にブツブツ文句言ってたが、そーいや同じ監督、マーティン・スコセッシ「沈黙 サイレンス」が気になってた。
この「沈黙 サイレンス」の原作は遠藤周作「沈黙」。
映画は結構よかった。長かったけど。
スコセッシの原作が日本人というのに驚くが、遠藤周作ならまあ納得ではある。
ただ、映画と小説ではラストが異なるらしい、というのがずっと気になってた。
というわけで、この際、遠藤周作の小説「沈黙」を読んでみた。古本で100円だったし。
ふむ…確かに映画はラストこそ違うが、ほぼ原作通りだったんだな、という印象。
そもそもこの小説、主人公であるポルトガル人司祭の心のうちが語られるのがメイン。
一方、映画では、実際に主人公が何を思ってるのかの説明セリフはほとんど無い。
俺は、映画を見終わった当時、タイトルの「沈黙」ってのはなんか違和感があったんだが、小説を読んで納得した。
小説では、なぜ神は一切語らないのか?というのが一貫したテーマであり、さらには主人公の司祭が、神の沈黙によって信仰心が揺らいでしまう…神の不在を疑ってしまう、というのが最大の見せ場といえる。
映画だと複雑な心の内はよくわからないままだったので、原作小説である程度は理解できた…けど、俺はキリスト教徒じゃないからなぁ。。
キリスト教徒でも何かの信徒でもない俺でも、この小説の最後、キリスト教を捨てたからこそ、棄教したがゆえにさらに信心深くなる、という逆説が語られるのは興味深い。
この逆説が小説で理解できたもんで、やっと映画版のラストの意味が理解できた。
正直、映画版のラストにはちょっと違和感があったというか、ラストが妙に安っぽい気がしてたんだけど、なるほどスコセッシはこの逆説を言いたかったんだろうとはじめてわかった気がした。
しかし、なんで遠藤周作とか頭イイ人らが宗教信じちゃうのかはいまだによくわらかない。宗教は理解するもんじゃなくて、体験なんだとは言われるけど。