英霊の聲

日本のウヨクと言えば三島由紀夫だと思うんだけども、俺はほとんど読んでない。

 

某Hに「このウヨク野郎!」と言われて、う~む、やっぱりクソ右翼としては三島を読まねばならんだろうと自戒し、とりわけ三島の中でも政治色が強いといわれた短編小説「英霊の聲」を読んだ。

英霊の聲 オリジナル版 (河出文庫)

英霊の聲 オリジナル版 (河出文庫)

 

 内容は、霊を呼び寄せるイタコみたいな人を通じて、226事件で処刑された軍人と、特攻機で戦死した軍人がその心境が語られるというものである。

 

この小説で最も重要で有名なセリフが

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」

(なぜ天皇は人間になってしまったのか)

 

つまり、226事件や神風特攻で死んだ軍人にとって天皇は神であった。しかし、その神たる天皇自身による人間宣言について疑問を呈するという小説である。

 

この本の最後に三島のエッセイが収録されている。その中でこのように書いてある。

日本にとって近代的立憲君主制は真に可能であったのか?
(略)
世俗の西欧化には完全に成功したかに見える日本が、「神聖」の西欧化には、これから先も成功することがあるであろうか?

 

俺は以前のブログで「明治時代以前・以後で天皇は全く違う」と書いた。
どーいう意味かといえば、天皇と法律とどっちが上か?という点で全く違うのだ。

 

戦後憲法どころか明治憲法において、天皇憲法皇室典範という法律で身分が書かれている。逆にいえば天皇憲法皇室典範を書きかえることができない。極端に言えば、主従関係において法律が天皇より上になったのである。

 

最近では、平成天皇がもう天皇やめたいとして上皇となったが、これも法的に天皇が自身では地位を選べないわかりやすい例である。

さらに、ず~っと問題となっている天皇の継承問題だが、これも天皇自身で決めることはできない。天皇の血族しか天皇になれないのに、天皇の家族が誰を天皇にするのか決めることはできず、皇室典範という法に従わなければならない。

 

江戸末期、世界情勢を踏まえてもはや日本は近代国家に生まれ変わるしかないとして、徳川家含めた武士によって明治政府が、つまり近代革命が起こった。従って日本における民主国家の誕生は民衆の革命ではない。

 

このとき、近代国家って何だ?とゆーので手本にしたのはヨーロッパ諸国であった。
近代国家とゆーのは法による統治、法治国家という制度だったんだけども、なんで法が正しいのか?といえば究極的にはキリスト教一神教)が正しいから、という考えがモトになっている。

政教分離というのは、法のタテマエではそうだが、リクツとして宗教がないと国家として成立しない。国家というのは共同幻想なので、その幻想を正しいとする宗教概念がないと国家としてまとまらないから。

 

そこで、日本の近代国家としてのルール=明治憲法において、その正当性はどこにあるか?が議論され、結果、天皇こそが日本のキリスト教的宗教だとされたのである。

 

そもそも天皇家は江戸時代において、ほとんど無視された存在だった。

風雲児たち (1) (SPコミックス)

風雲児たち (1) (SPコミックス)

 

 幕末を描いた歴史マンガ、みなもと太郎風雲児たち」に、高山彦九郎という人物が登場する。この人が江戸時代に、実は天皇ってすっごい偉いんだ!と皆に説いて回ったんだけども、江戸時代の民衆は誰も天皇を知らないのである。

 

そして、高山彦九郎天皇家を訪ねたときに、天皇家の従者が着るものがなくてボロボロの蚊帳をまとっていた、という話も描かれている。

 

さらに、当時の天皇の食事では、おかずの皿の数が伝統的に決められていたが、カネがなくておかずが用意できないので、数合わせでやむなく腐ったおかずを皿にのせていたことも描かれている。

 

んじゃ、なんで徳川将軍から天皇になったのか?といえば、そもそも誰が将軍なのかを決めることができるのが天皇だったからである。戦国時代の日本において、どれほどの軍事力・権力を持っていても、将軍を名乗るには天皇にお墨付きをもらう必要があったのである。

 

この件もみなもと太郎風雲児たち」に描かれているが、徳川家康をまつる日光東照宮とは何か?といえば、実は徳川家康天皇家を超えた神を目指して建立したものである。しかし、一方で徳川家康の孫らの研究によって、天皇家こそが日本に重要だとする国学(水戸学)なんかが発展したのも皮肉な話である。

 

近代国家とは民主国家であり法治国家である。
日本の仕組みは天皇を王とした立憲君主制である。果たして日本は、天皇を諸外国のマネをした近代国家の枠組みで囲って良いのか?と三島は問うたのが「英霊の聲」である。

 

俺的に三島由紀夫のハナシをまとめるならば、
天皇は日本文化の源泉であって、日本という共同体の神である、いや、神であらねばならない。しかし、天皇キリスト教ではない。日本独自の神である天皇の存在によって日本は日本たりえる…自己同一性、アイデンティティと言えばいいのか…
とゆーことではなかろうか。

 

そもそも、天皇キリスト教的概念で立憲君主の王としたのは何かと無理があった。
明治以降、天皇を京都から東京に移し、これまでほぼ無視してきたにもかかわらず、国家の中心にそえた。そして、仏教でなく神道こそが日本の古来からある宗教であって、天皇はその神道の一番エライ神主だ、みたいな話をつくりあげた。

 

神道は経典が無いので記録がないし、仏教と混然一体になってしまっている。

わかりやすい例でいえば、歴代天皇の墓は寺(寺は仏教に由来する)にある。んでもって、明治以降、天皇伊勢神宮に参拝するが、そもそも江戸時代より以前に天皇伊勢神宮に参拝した記録は1回ぐらいしかない。

加えていうなら"国家神道"という言い方はGHQによるものだ。

 

キリスト教におけるキリストってのは唯一の絶対神であり、すべてを超越した存在であるが、日本の神様の概念にそんなものは無い。

アニミズム八百万の神、というのは、人間を超えたもの全てを指すのであって、動物も木も風も岩も神になる。

三島の指摘することを解釈すれば、その八百万の神のなかで天皇という位置づけは、かなり具体性をもった日本の文化・歴史の体現者ということではなかろうか。