道徳についてのクソ長い話 その2

"井戸に落ちそうな子供を思わず助けてやる"ってのは道徳的だろ?とカントは指摘する。

 

先日の俺の考えだと「道徳とは自己犠牲を強いる社会ルールである」というならば、今にも井戸に落ちそう…って例えが古いんで、現代なら…

今にも道路に飛び出しそうな子供を思わずかばってやるってのは、いちいち社会ルール云々を考えてるの?と言われれば、そーではない。

 

俺が思うに、道徳には2つのレベルがあって、ひとつは先に述べた社会ルール。具体的には法律とか家族間の決まり事とか会社でのルール。
このルールはまあ後付けみたいなもんで、みんなで決めたので守りましょう、というもの。

 

もうひとつは、生まれつきというか文化的なルール。人間としての習性とか言語なんかの文化的ルール。ただし、コレは俺は道徳というよりも本能的な快・不快レベルな気がする。
上記の例で子供が危ないので思わず助ける、というのは生物的な本能な気がするのだ。

 

人間は集団で生活する社会性を持つ動物である。その点において、自分よりも社会の維持をしようとする利他的行動をすることはよくある。
見知らぬ子供でも、目の前で危険が迫ったなら保護しようとするのは本能ではないかと思う。

 

さらに、我々は言語を習得してしまっている。言語は一人では成り立たない。あくまでも社会を形成するための道具として使われるが、同時にその言語によって思考は制限される。
母国語をおぼえる以前に自分は何を考えていたのか、わからないのだ。

 

よって、日本語という日本文化に良くも悪くも制限されてしまう。例えば武士道が道徳的価値観を持つのは日本文化において良しとされているからだ。

他人がいつも使っている箸を煮沸消毒したとしても自分が使うのに抵抗を感じるのも日本文化だから。それを否定するのは難しい。

 

その生得的・文化的価値観は道徳的価値観のもとになるとは思う。ただし、それはその社会において当たり前すぎて道徳的とは言えない気がする。
なので、道徳といえるのはあくまでも皆で合意形成された社会ルールだと考える。

 

あ、今、思いついたのだが、絶海の孤島での一人暮らしで、ひっくり返ったカメを助けるのは道徳的行為なのだろうか?
カメを助ける、というのが道徳的なのか否かを判断するのは自分である。自分が道徳的かどうかを自分で判断するのは不可能ではないのか?理屈としても堂々巡りなだけだ。

 

ならばペットとして動物を飼育することが道徳的か?というと、そーは思わない。有史以前から人間は犬を飼ってたし、なんか本能的行為だと思うんだよね。。


なので、動物にやさしくするというのを道徳的だと解釈するのは自己欺瞞だと思っている。同時にその延長線として動物愛護法に俺は違和感がある。

道徳についてのクソ長い話 その1

道徳、あるいは善とは何かを考えると、今のところ道徳とは社会ルールの一部だよ程度の答えしか思いつかない。
個人の生き方・幸福の追求だというなら、社会と無関係に個人が行う行為すべてが善になってしまう。
もしくは信仰・神を想定した場合はありえるが、理性的とは思えない。

 

仮に、絶海の孤島に一人きりとか、もう二度と他人と会わない人生を考えたとき、道徳あるいは善行はありえるだろうか?

 

自暴自棄にならないというのは道徳とはいえない。それは単に自分の利益になる行為といえる。
んじゃ、むやみに動植物を殺さない、というエコっぽいのは?
といえば、これも単に自己の利益になるだけ。

なぜなら、必要以上に動植物を殺せば、自分が将来的な衣食住に困るからという理由以上にありえない。

 

完全に他人から隔絶された世界で道徳というのはちょっと思いつかない。
ありえるのは、何か宗教的な教えに基づくよーなもの…神様がそー言ったとか、そんなレベルでしかありえないように思うのだがどうか。

 

例えば自殺は非道徳的なのか?あるいは肉食が非道徳的行為だといえるか?というのを神様を想定せずには回答できないように思う。そもそも神様がいるかどうかを判断するレベルで考えれば、自殺が善か悪かなどどーでもいい話なのだ。

 

真・善・美という言い方をするが、絶海の孤島でたった一人でも真(本当のこと)はありえる。例えば雷は電気だよとか。で、美もあるだろう。自分が心の底から美しいと思える景色があれば、それは美である。
でも、これは善だ、これは道徳的だなと心底思える瞬間があるだろうか?
あえていうなら、これまでの現代社会から離れての原始生活が本来的な人間の生活であることが善だ!と思える可能性はあるかも知れないが、これも結局は人間社会との比較にすぎず、本当に孤独から生み出された善とは言えない。

 

逆に絶海の孤島、完全に孤独な自分において悪はあるか?
地震や台風なんかの天変地異、空腹、ケガや病気などは悪といえる。
まあ善悪というよりも「悪い状況」といったところか。

 

では、その逆が善だろうか?
もし、道徳=幸福ならば、良い状況にしようとするものは善となりえる。
悪い状況から良い状況へとさせるもの、させようとするもの…冬から春へ移行する季節は善か?というとなんか違う。一方で家をつくって雨風を凌ぐのは主体的・能動的なのでなんか善な気がする。空腹から満腹状態になるのは善いといえる。
つまり、あくまでも個人的な利害において害をしりぞけようとするものは善となりえる。

 

でも、これって単に個人的な利益じゃね?
自分の生き方・幸福の追求こそが道徳なのだ、と主張する人もいるが、俺はそうは思えない。

 

なので、俺が道徳とは何かと考えると、結局は社会のルールのひとつだとしか考えられない。

では、例えば究極的に自分の命と引き換えに他人を助ける善行=自己犠牲も社会のルールなのか?といえば、そうである。


先ほどの例である絶海の孤島での自己犠牲はありえない。
自己を犠牲にして他人に利益を与えることは基本的には社会をつくりあげるうえで欠かせないルールであり、そもそも道徳は自己犠牲であるとしか言えない。

 

道徳とは、行動を制限するルールの根源であって、他人とつくり上げる社会で個人がどれぐらい制限をうけるべきかというルールである。

そして個人の権利というのは、そーやって個人の行動が制限されるがゆえに成り立つ。一切何も束縛されず一切の義務を果たさない動物のような個人に権利は無いのだ。

 

とゆーことで、道徳・善というのは社会ルールであって、その善を自分が選択するか否かは状況によるといえる。

 

基本、ルールを守った方が得をするようにつくられたのが現代社会である。赤信号を無視するよりは守ったほうが都合が良い。
自己犠牲しないよりもする方が、社会全体から個人を俯瞰すれば、社会の利益になる。

 

ん?
さっきの赤信号を守るってのは自己犠牲なの?という疑問はあるだろう。
自分が前に進みたいのに、赤信号によって停止を強制させらるのだ。非常に小さいレベルだが、自分の行為を制限させる=自己犠牲といえよう。


…でも、赤信号って守った方が単に得でしょ?という疑問もあるだろう。
そりゃそーなのだ。基本、社会ルールは守った方が得になるようにできている。これを無意識的に守ったからといって道徳的か否かなどをいちいち考えることはないだろう。しかし、よく考えてみると、その場その場で社会ルールを守るのか否かは自己の判断によるものだ。

倫理とは何か

善悪とは何か。それって善なん?
という問いに、それが善だ!と確信をもって答えられるのは普通は宗教だろう。やっかいなのは、それが善か否かの判断ができるのはその宗教にどっぷりつからないと判断できないところだ。

 

んじゃ、道徳って何か客観的な、誰であっても善だと認めるようなモノってあるのか?という問いに対して、倫理学においても議論があるらしい。

永井均「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」

この本の第6章によれば、倫理学は2つの軸があるという。
 ・実在論vs反実在論
 ・内在主義vs外在主義

ヤヤコシイのでヒジョーにざっくりとした俺の理解でいえば、
 実在論=客観的・究極的な善があるんだよ
 反実在論=客観的な善は無いので話し合って決めよう
 内在主義=善は必ず実行されるべき
 外在主義=善があったとしても従うかどーかは俺次第

例えば、見知らぬ子供でも道路に飛び出したときに無意識的に助けてあげようとするのは(実在論+内在主義)といえるんじゃないだろうか。
一方で、謎の宗教の神を信じて、その教えに忠実に行動しよとする狂信者も同じく(実在論+内在主義)とも考えられる。

 

イヤ~でも、仮に見知らぬ子供を助けたところで、結局は単に自分がやりたかったという欲望に従っただけで善だとはいえないんじゃないの?あるいは無意識でも善人になりたい、善人に見られたいという欲望で子供を助けたのであって、そーいう下心があれば善っていえるの?という疑問も成り立つ。

 

で、それは?と考え出すと、なかなかキリのない思考になる。

 

カント的に言えば、見知らぬ子供を助けようとするその心意気が善であって、もし他人に評価されるために助けたなら善にはならない。
一方でミル的に言えば、結局のところ子供は助かったんだからそれって善だよね。と言える。

そ・そ・ソクラテスかプラトンか~

報道をもとにすれば、安倍元首相の襲撃犯は怨恨による殺人である。
なので、民主主義云々とか信教の自由云々に関係するような政治・思想犯ではない。
単純に計画殺人である。

 

しかし、それでも俺が興味深いのは、犯人の根性である。
自分の目的=統一教会に打撃を与えるため、自分とは因果関係が無くとも、最も効果的であろう人物、それも政治権力の中枢にいる人物にたった一人で殺害を計画し、実行し、目的を果たしたワケだ。

 

犯人の生い立ちに多少は同情する面はあるにせよ、用意周到さといい、死刑上等のその態度、政治・思想が無いがゆえにアナーキーとも思える。
あの奥崎謙三にシビれた俺としては、犯人の理性的にも狂気的にも思える反社会的衝動に興味を惹かれるのだ。

 

もし、自分が国家を相手に戦う根性があるか?と問われれば、この犯人ほどの根性が無いと言わざるを得ない。
…オマエ何言ってるの?とまともな大人なら思われるだろーが、「自立」とは何か?と考えると、国家からの独立を個人で成し遂げたときに本当の自立といえないか?という小学生のような理屈を考えてしまうのだ。

 

アメリカの共和党支持者が銃を持つ理由は、いざ自分一人で国家と戦わなければならないために武装しているのだ!という理由がある、というのだが、日本でその根性を持って実行に移したのはこの犯人ぐらいじゃないか?と思ってしまう。

 

まあ、アナーキストが好き、というのは俺の性癖みたいなもんかな?という気がするので、んじゃ、道徳的に今回どうなの?と考えてみたい。

 

俺はこれまで倫理・道徳についてマトモに学んでこなかったもんで、はじめて倫理に関する本を読んでみたのだが、コレがまた難しくて…。

しかも、なんというか隔靴搔痒というか、ホントに善悪についての話なのか何なのか途中でワケがわからなくなってくる。

思うに、ホントの善悪は宗教でしか回答が無い。少なくとも学問として論じるなら、その議論の正当性を論じる=論理学っぽくなっちゃうのかな?…というクソみたいな理解である。

 

で、まずは…
そ・そ・ソクラテスプラトンか~


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ということで(?)、古代ギリシャプラトンアリストテレスにおける倫理とゆーものをざっと読んでみると、
・抽象的だけど本当の善というのはある。でも全部を理解できないんだよ(イデア的なアレ)
・善というよりも、人間としての器、器量による的な話。
・「中庸」という概念が重要。やりすぎ注意だよね~的なアレ。

う~~ん、古代ギリシャの倫理から今回の事件を考えるのはちょっと難しいかな。。

 

次にホッブズとかヒュームなんかの社会契約説を考える。
どうも俺の理解だと、
・人間は生まれた時点ですでに社会が存在している。
・なので、個人として絶対に社会の影響下にある。だって言葉が通じる=社会だから。
・とすると、善悪というのはすでに社会に組み込まれた価値観であり、個人としてはもはや生まれつきといっていいほど逃れられない価値として存在する。

 

ここで「なんで人を殺してはいけないか?」という疑問に答えることができる気がする。
この疑問の前提として、人を殺してはいけないという価値観がすでに共有されている。なぜなら、人を殺してもいい社会ならそもそもそんな疑問を抱けないからである。
従って、「なんで人を殺してはいけないか?」という疑問は、今の社会の成り立ちを根本から否定する疑問ではあるが、その社会を否定しても何も意味が無いといえる。

なぜなら単にそれがルールだから。

「いや別に殺してもいいんじゃね?ただし人殺しを許容できる社会をお前がつくれたらな?」というのが社会契約説的立場による答えになる…気がする。

 

う~~~ん、なんか考えられそうだけどイマイチっぽい。

 

次にルソーとかカントの倫理を読んでみるのだが、ここらへんで人権っぽい感じで個人には主権あるんだゾというのがでてくる。
カントの場合は、善ってのはフツーの人が欲望をおさえて理性的にふるまおうとするのが善って奴だよ。善の目的なら手段なんてどーでもいいでしょ?と読める。
ルソーの場合はもうちょっと過激な感じで、善かどうかは一般化できるかどーかがカギだ、という。つまり、それが良いことか悪いことなのかは皆が思えば(一般化できるなら)良いコトであって、もし自分が少数派ならそれは悪なので悔い改めろ、となる。

 

そういわれると、今回の犯人の殺人行為が一般化されるとは到底思えないので悪であるといえよう。
ただ、統一教会も悪いトコあるよね~、そのことをPRできたのは良いコトだと思えないか?と言われるとそんな気もするが、それを言うとカント的に裁けなくなる。

 

なんか使えそうで使えない?ような気もする。

 

次にベンサムやミルの功利主義について。
基本、善というのは幸福のことだよ。で、みんなの幸福が多ければ多いほどそれは善だといえる、と解釈できる。
ならば、今回亡くなった安倍元首相が不幸になったせいで、統一教会の被害者が減ったという幸福と天秤にかけたらどーなる?という疑問が出てくるのだが、そもそもそんなことって天秤にかけれるのか?という当たり前の疑問も出てくる。

 

う~~~ん、ここらあたりになってくると段々現代の感覚に近くなってきてるような気もする。まあもうちょっとよく本を読んだ方がいいよね。

しまじろうのアルディメオラ

しまじろうのプラネタリウムを見た。

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プラネタリウムは全体で40分。
前半20分が地元の星空について。
後半20分がしまじろうのプログラムだった。

 

猛暑の中、プラネタリウムの中は暗くて涼しい。
前半でもはや意識がモウロウとするなか、しまじろうがはじまる。

 

やがて月の妖精が登場するのだが、そのシーンの曲、なんか聞いたことあるぞ?
アルディメオラのアルバム「kiss my axe」のThe prophetって曲だ…


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しかし、全然違うメロディが乗っかってて…何だコレ…と思いながら爆睡。

テロール 教授の怪しい授業

元首相で現職の国会議員が射殺されたニュースは衝撃的だった。
海外では「暗殺」と報じられたものの暗殺といえるのかは疑問が残る。

その後の報道によれば、政治的・思想信条によるものというよりは個人的な怨みという感じらしい。

 

では、今回のケースは暗殺とかテロとどう違うの?というと、実は暗殺でもテロと言っても間違いではない。
んじゃ、テロって何なの?を社会学的にちゃんと解説したマンガがある。

「テロール 教授の怪しい授業」

大学を舞台に、怪しい教授がテロやカルト組織について学生たち(=読者)に教える、というカタチをとったマンガである。

マンガとはいえ、内容はそこら辺の書籍よりもしっかりしている。

 

物語のはじめ、新入生を歓迎する部活に交じってカルト宗教に勧誘する人々が描かれる。


では、なぜカルト宗教は怪しい勧誘をするのだろうか?
普通の考え方なら、明らかに怪しい勧誘であっても非効率ながら誰かは入ってくるんじゃないかと考えるのだが、教授はカルト団体の目的はそうではないと指摘する。

 

カルト団体の目的は、メンバーらの人間関係を断絶させるために勧誘をさせているのだ。

 

そもそもが怪しい勧誘である。友人含めて家族すら自分を避けるようになると、いよいよそのメンバーはカルト組織以外に人とのつながりが無くなってくる。その結果、誰も親身になって相談できる人がいなくなることで囲い込みに成功するのだ。

 

あ~ナルホド!と感心した。

 

この1巻でテロとは何かを説明しているが、本書の通り、そもそもテロには定義が無い。テロか否かは立場によるのだ。

(語源からいえばフランス革命で、人権思想を広めるために人権思想家が殺戮しまくったことがテロの語源なのだが、今回は話がそれるのでまあ置いとく)

 

法律はおろか国際的な定義も無いので、誰かがテロだと言えば何でもテロともいえる。
今回の襲撃事件はテロだと言えばテロだし、暗殺だと言えば暗殺である。

 

では、今回の犯人の目的は何だったのかといえば、(旧)統一教会に打撃を加えることだったとされる。
理想的には(旧)統一教会を壊滅させることだろう。

 

しかし、オウム事件のレベルですら破防法適用はされなかったことを考えると、今の日本の法律で宗教団体に壊滅的打撃を与えることは不可能である。一方で、仮に犯人が国会議員になったとしても打撃を与えるほどの法改正も無理だったであろう。

 

ということで、法的・民主的手続きを全部無視して暴力的手段に訴えることにより、可能な限りのPR作戦として誰をどうやって狙うのか?と考えれば、今回の事件は恐ろしくピントが合ってた。
もし、統一教会のトップなりを襲撃したところでここまでの騒ぎにはなりえなかったと思われる。

 

個人で銃を自作し、個人で襲撃し、結果、殺人にまで至った。さらに国葬ということで、語り継がれることになるだろう。

 

先の「テロール 教授の怪しい授業」にもあるが、現在のテロの目的はほぼPRである。
自らの思想信条を知ってもらい、共感してもらうためにテロを行う。
今回の犯人をテロだとするなら、ここまでネットやテレビで報道されることによってまさしくテロの目的が達成されたといえよう。

news.yahoo.co.jp

 

今回の犯人と同じレベルまで追い詰められた人がいたならば、法律なんかの民主的手続きなど無視して暴力的手段の方がよほど効率がイイと思われる先例になりうるのは間違いない。

プロジェクト・ヘイル・メアリー

小説「プロジェクト・ヘイル・メアリー」読む。

随分と評判がいいので読んでみて納得。
う~ん、コレはスゴイ。
超頭イイ奴が書いた小説だとアホでもわかる。

 

ざっと書評を見たところ誰もネタバレしてないので俺も書かないけど、とりあえず表紙を見て分かるようにロケットで宇宙を飛ぶSF小説である。

その宇宙工学というか科学全般…工学、物理学、化学、生物学、天文学等々、あらゆる分野を総動員して危機を察知し、問題解決にあたるその姿勢は驚愕に値する。

 

冒頭、主人公はロケットの内部で目を覚ます。隣には死体が2つ。全然状況が呑み込めない主人公は、徐々に記憶を取り戻してく。
同時に、過去の物語が並行して語られる。
なぜ主人公の記憶が無いのか?このロケットは何か?は徐々に、しかも完全に科学的な理由があることが次第にわかってくる。

 

そして、上巻の途中から劇的な展開が待っている。

 

すでに映画化が進行中らしいが、まあ楽しみにしている。
同じ作者で「火星の人」という作品も昔に映画化されてる。マッド・デイモン主演の「オデッセイ」
これは火星でひとり取り残されたマッド・デイモンが火星で家庭菜園して命をつなぐ話だった。

 

本作は、前作の地味な科学モノと比べると、設定はかなりぶっ飛んでる。
ぶっ飛んでるが、そのぶっ飛び具合を科学的にキッチリ煮詰めてるのが感心するところ。