竜女戦記

youtubeをぼんやり見てたらガッツリはまった。
「億万長者の挑戦」
アメリカの企画番組で、100ドルの元手を3ヶ月で100万ドル規模の商売にできるか?を競う。


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俺がアメリカンドリームって奴を見せてやらあ!と、一代で億万長者となった一人が名乗りを上げ、プライベートジェットで見知らぬ土地に降り立つ。

 

で、100ドルとピックアップトラック1台で見知らぬ土地に放り出される。

本人はこれといった技術は何も持ってない。

偽名を使うルールで、これまでのツテなんかも一切使えない。
果たしてそこからどーするのか?youtubeで全8話、一気に見てしまった。

 

俺が面白いのは方向性が決まった後半からの追い上げだけど、前半のにっちもさっちもいかないあたりも興味深い。
ただし、かなり日本と事情が違うので日本だとどーなのかは考えてしまう。

 

疑問があるといえば山ほどある。
冒頭から古タイヤを拾ってきて転売したり、格安ボロ自動車を仕入れて転売するのだが、野積してある古タイヤって勝手に拾ってきて売っていいの?とか、買ってきたクルマをそのまま路上で現金売買するんだけど、日本でコレができると思えない…そもそも道端で売ってる中古車を買う奴がいるとも思えない。

あと、ある程度資金ができた時点ですぐに賃貸契約してるんだけど、日本だと公的な身分証明書がいるので偽名で契約できないし。。

 

それに中古住宅を3~4百万円で買って、百万円ぐらいで修繕して、7~8百万円程度ですぐに売る…って、コロナ前とはいえ、日本だとちょっと考えられないかな。東京ならまだしも田舎でそこまで住宅需要が無いのもあるが、あの修繕規模が百万程度ってのは安すぎる。最後の店舗改装費も異様に安い…これってアメリカの標準なのかしら?それに、ほぼすぐに買い手が見つかって現金払いってのも日本だとちょっと考えられないかな。。

 

まあ文句を言い始めたらキリがないが、
転売だけじゃなく資金がたまるまでトイレ掃除したり、ずっと車中泊で体調を壊してゲロ吐いたりしてリアリティはある。

 

やはり後半の
・地元密着型
・企画が終わっても成長し続けられる
という厳しい条件を自ら課して、次から次へと企画を出して試行錯誤していく姿には感心する。

 

最後のコレでいくぜ!という企画でスタッフを集めるのだが、その面接の様子から、さらに雇ってみたらダメだったぜコイツとか、紆余曲折が実にリアル。
そのスタッフたちが皆ほぼ素人でアタフタしてる横で、本人も全てが初体験ながらリーダーシップを発揮する姿は色々考えさせられる。

 

■竜女戦記

1巻でシビれたマンガ、4巻まで出た。

コレが映像化するなら、邦画の実写版だけは勘弁してほしい。

この圧倒的スケールと意味が分からないレベルでの設定の細かさは、よほど制作費があるハリウッドか、せめて長編アニメにして欲しい。

THE BOYS

amazon primeメイドインアビスの2期がはじまった。
初回から期待通りのクソ話でオッサンのワクワクが止まらねぇ。


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同じくamazon primeのドラマ、シーズン3を最後まで見てしまう。
「THE BOYS」


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まったく最低で最高に面白い。
シーズン1より2,2より3の方が面白い気がする。
でも4があったら蛇足だろうな。。見ちゃうんだろうけど。

ひとの気持ちが聴こえたら

「アルージャーノンに花束を」という小説が昔に流行った。

ざっと内容をいえば、

主人公はいわゆる知的障害者で簡単な仕事しかできない。しかし友人もいてそれなりに幸福だと思っていた。一方で自分は頭が良くなりたいとも願っていた。
ある日、頭が良くなるという試験的治療を受けることになり、メキメキと知能指数が上がっていった。
うまく言葉もしゃべれなかった主人公は、やがて天才的な知能を獲得するに至る。
ただ、周囲との人間関係はいまくいかない。さらに、状況が分かってくるにつれ、昔の友人と思っていた人間は、単に自分のことを馬鹿にしていただけだと気づきはじめ、到底、幸せとはいえない人生だったのではと理解し始める。
そして、その知能は長くは続かず、徐々に元通りになっていく…。

 

この話はSFである。
しかし、現実によく似た治療があるのをご存知か。
TSM…経頭蓋磁気刺激、と呼ばれる医療行為で、要するに強力な電磁石を脳みそに当てる、というものである。
以下の本は、TSM治療実験の被験者として、その効果を自身で記した記録である。

 

「ひとの気持ちが聴こえたら 私のアスペルガー治療記」読む。

「アルージャーノンに花束を」と違うのは、TSMは知能指数ではなく感情をコントロールする。著者は自閉症、アルペルガーと診断されており、50歳ぐらいの中年男性である。
著者の知能は平均を大きく上回っており、音響関係や自動車修理の仕事で成功を収めている。
音に対しては非常に敏感で、絶対音感もあるが100台位並んだスピーカーの調子をそれぞれ瞬時に判断できるという。音波を計測する機械を見たときは、自分の感覚が機械で表示されているんだな、と思ったそうでKISSやピンク・フロイドなど世界的ロックバンドと仕事をしていた。その後、高級自動車専門の修理会社を自分で立ち上げ、経済的には裕福である。

 

傍から見ると成功者に見えるが、著者自身は落伍者だと思っていた。

成功者というのは、友人に囲まれるなど他人からの評価が高い人間だと思っていたからだ。実際、著者には幼いころから友人と呼べる人間はほぼいなかった。なぜならアスペルガー症候群の特徴として、他人の感情がわからない、という特性があるからである。

 

本書の具体例として、道端で人が転んだとき、著者含めてアスペルガーの人たちは「立ち上がれ!」と叫ぶという。なぜなら、転んだままだとクルマや自転車に轢かれて危ないからである…合理的といえば合理的だが、転んだ人にとっては不愉快であることは間違いない。その不愉快さが理解できないのである。
皮肉という表現が理解できない。例えばボロボロの洋服を着ているときに「いい服着てるね」と言われたら、それは悪口ではなく、言葉通りに誉め言葉だと解釈することしかできない。全体の状況や表情なんかを読み取ることができないのである。
著者は、よくロボットみたいだと言われたらしく、とても傷ついたのだが、自分のどこがロボットっぽいのか理解できない。

 

音楽もそうで、音への感覚は人一倍あるものの、曲調が明るいとか暗いとか、そもそも何を意味した曲なのか、などはそもそも理解できなかったという。

 

ある日、試験的にTSMを受けることになり、小一時間ほど頭に電磁石を当てた。

 

すぐには特に何も変化はなかったが、その治療の帰り、クルマを運転していたら、これまで何度も聞いていたジャズの曲に突然、感動して涙を流したという。

 

半世紀も生きてきて、何かに感動して涙を流すことなど経験したことがなかった。
生まれ始めて、これが感情というものだ、ということを体験した瞬間だったという。
…ただし、一時間もしないうちに元に戻ってしまったのだが。。

 

著者の例えでは、白黒の世界に生きていた人間…色盲の人間にとって、赤や青の話は理解できない。色の話は皆が口裏を合わせて自分をダマそうとしているのではないかとずっと考えていたが、突然、目の前がフルカラーで見えるようになった感覚と同じではないか、と。

さらに、時間がたてば元通りの白黒の世界になってしまい、今の自分は白黒だが、確かにカラーの世界はあると考えるようになったようだ、と。

 

この治療は、誰しもが著者のような劇的な変化があるわけでもないようである。
そもそもが極めて主観的な話で、数値のつけようがない。

 

ところで著者は結婚していて、嫁さんはうつ病だった。感情が読めない夫だからこそ、うつ病の嫁とうまくいっていた。夫との会話で他人が嫌そうにおもいはじめたら、嫁さんが夫に教えていた。
そのような関係は、夫が感情を持ってしまったことで、段々とうまくいかなくなるのである。

 

この本はSFではない。
ノンフィクションなので、結局、もや~~~っとした感じで終わる。

 

感情を取り戻すことで、著者は喜びに包まれると同時に、これまで自分が友人と思っていた人間は実はそうではなかったことを理解してしまい、深い悲しみを知ってしまう。さらに、うつ病の嫁の暗い感情を読み取れてしまうために家にいられなくなってしまうのである。。

 

著者は人並みの感情を持つことが幸せになるために絶対に必要だと思っていたが、同時に不幸な感情も知ってしまい、打ちのめされる。

そして「アルジャーノンに花束を」読んだ著者は、まさしくこれから自分にふりかかる不幸なのではないかと思い悩むのである。

 

ところで、この治療方法は超人をつくる可能性を秘めている。
感情に対する感受性を増やすことも減らすこともできるわけで、その他の能力…知能指数なんかも上下できるようになるかもしれない。さらに何を考えているのかをモニター画面に映し出すことができるようになるかもしれない。
これは倫理的にどこまで許されるのか?

 

いや、そもそもアスペルガー診断された人間の脳をいじくって、思考を変化させること自体は善いことだろうか?

先日にみた「3人のキリスト」のような統合失調症の人間の脳みそを直接いじって、人格そのものを変えてしまうのは許されるのだろうか?

 

なかなか考えさせられる一冊であった。

3人のキリスト

「3人のキリスト」見る。


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最後、これは事実だったんですよ~っぽい終わり方だったもんで、マジかとググったら全然違うじゃねーか。。


元ネタは「イプシランティの3人のキリスト」という実験。自称キリストだという妄想を持っている統合失調症3人を同室にして経過を見る、というもので、ここまでは映画と同じだが、wikiによれば実際の実験は単に思い付きで行われて結果はクソミソだったようだ。

 

映画は…G監督が見たら一週間ぐらい寝込みそうな演出だし、まあ皆見ないだろうからネタバレありで書く。

 

俺がキリストだぁ~!と叫ぶ3人を連れてきて、段々、主治医のもと打ち解けていくという内容。ハイライトはそのうちの一人が自殺するシーンである。

 

この映画の主人公の医師は、1950年頃の精神治療は薬と電気ショックであったが(今も同じじゃね?)、それを対話で治そうとする。
舞台となる精神病院の院長は主人公のやり方に反対していたが、段々と成果がみられるようになってきたあたりで主人公を病院から追い出して3人の治療を自分の手柄のしようと画策する。

 

そもそも権威主義的な院長が大嫌いだった患者のひとりは、最後、この院長が悪人なのは悪魔のせいであるためキリストである自分の身を捧げて院長を救おうと自殺するのである。

この自己犠牲はタルコフスキーサクリファイス」と同じ。
ちなみに「サクリファイス」は世界平和のために自宅を放火するんだけどさ…。

 

その自己犠牲と、対話を通じた治療を推し進めた主人公の人権意識エライね~的な部分で感動できるかがこの映画のキモであろう。

 

俺としては自己犠牲はわかる…という表現が正しいかどうか不安だが…自己犠牲の尊さというか、まったく見返りの無い、傍から見て無意味と思える犠牲への崇高さについては感じることろはある。

 

ただし、統合失調症患者といえども心をひらけば対話することができるよんだよ的な内容についてはかなりの疑問がある。
話としては単純で美しいけど、それはかえってマズイんじゃないか?

 

もし、この映画を見て、精神疾患の人ともわかりあえるんだ!的な感動を持ったならば、そもそも意思疎通ができない人間をどう思うだろうか?
話ができる・意思疎通ができてこそ人間だ、という意識はアブナイ。
相模原障害者施設殺傷事件にて犯人の植松は、意思疎通ができない重度障害者を殺した、という。

自分は植松ではない、と平然と公言できるほどの自信は俺には無いが、この映画を見て、いや~精神疾患といえども話せばわかりあえるんだよね~的な感想をもつほどの馬鹿にはなりたくない。

 

とはいえ、この予算規模で精神疾患をあつかう映画がつくれるのはエライ。
日本だとちょっと考えられない。

思いつくのは想田和弘「精神」ぐらい?これは本作よりも素晴らしい。

あとは脳性麻痺ではあるが原一男「さようならCP」これも傑作ではある。

 

そーいや、20年ぐらい前かな…知り合いの精神科医と飯食ってるときに、電気ショックってやってるの?と聞いたら「いや~アレ、スゴイ効くんだよ…暴れまくっててもピタッとおさまるんだよね」と苦笑いしてたのを思い出した。

はじめての言語ゲーム

橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」読む。

ゲーム、と聞けば、普通はスマホやトランプ、あるいはスポーツなんかの遊び=ゲームを思い浮かべる。

次に数学の"ゲーム理論"を思い浮かべる。

このゲーム理論については狂気の天才数学者ナッシュを描いた映画「ビューティフル・マインド」なんかで有名かと思う。ちなみにドーキンス利己的な遺伝子」は遺伝という生物学的特性を数学のゲーム理論で読み解いた本で、今ではゲーム理論は多種多様な分野に応用されてる。

 

で、あとひとつが哲学分野で、ウィトゲンシュタインの"言語ゲーム"である。
俺ぁこの言語ゲームを正面切って?調べてこなかったのが気がかりだった。

 

ず~っと昔、システム論について調べたとき、チラっと脳裏をかすめた程度で、言語ゲームとシステム論がどう結びつくのか?までは考えてなかったが、今回、本書は入門書の…さらに前段階レベルだけどもなんとなく目星がついた気がする。

 

で、本書の内容はとゆーと、第一章はウィトゲンシュタインの生涯をざっと紹介している。
かなりの金持ちのボンボンに生まれたが近親者に自殺者が多い。
さらに第1次世界大戦と重なって自分も兵役につき、まわりがどんどん死んでいく。
さらにユダヤ人だったことからナチスに追われる身となり、何重にも歴史の荒波にもまれた人生だったようだ。

 

で、突然、次の章では数学の自然数有理数・実数の話になる。
 自然数とは、1,2,3,4…と、フツーに1つずつ数える数で、無限にある。
 有理数とは、分数で表現できる数の全てで、無限にある。
 実数とは、分数や小数点も含めた数の全てで、無限にある。
さて、自然数と実数とどっちが多い?
と言われたら、いやいやどっちも無限だから、答えは同じぐらい無限でいいんじゃね?と思う気もするが、ゼロと1のあいだにも無限に小数点がある実数の方が多くね?と言われたら、そんな気もする。


では、無限にある自然数と無限にある実数のどっちが多いのか証明してください、という問いに、カントール対角線論法の話が出てくる。

 

…え…講談社現代新書のレベルでそんな…新書なんてインテリにあこがれる馬鹿しか読まない本だと思ってたのに…まさか大学レベルの数学の話かよ。。しかも新書の1ページ程度でサクッと証明の説明が終わってて、なんのこっちゃ全然わかんねぇよ。。

 

あ、でもコレ、マンガで読んだのを思い出した。絹田村子「数学であそぼ」にカントールの話があった。で、読み返した見たら肝心の部分の前で説明が終わってた。

結局、その本書の1ページ分、カントール対角線論法をネットで調べて理解するのに丸一日ぐらいかかった。

 

ウィトゲンシュタインの哲学は前期と後期に分かれる。言語ゲームは後期なんだけども、ウィトゲンシュタイン哲学は前期に書かれた「論理哲学論考」が特に有名だろう。
その「論理哲学論考」の内容は短くて、段落ごとに番号がふってある。内容はwikiにもざっと描いてあるが、普通に読んだらなんのこっちゃ全然わからん。
ただし最後のセリフ「語りえないことについては、沈黙するほかない。」が妙にカッコイイ。

 

この「論理哲学論考」は、無限にある世界のあらゆる物事と無限にある言葉との関係性を数学の理屈であらわしたもので、それがカントール対角線論法と同じく数学の集合論を使っているわけですよ、と橋爪大三郎は説く。

 

あ~…そうなんだ。。

 

で、「論理哲学論考」において世界のあらゆる物事と言葉はパラレルに対応するんだよ、と。なので、そもそも思考できないもの=言葉で言い表せないものは存在しないものと同じで、同じく存在しえないものは言い表すことができない、よって「語りえないことについては、沈黙するほかない。」

 

俺としては、西洋思想の香りがプンプンするなぁ、と。
思考・考えられること=言葉で言い表せられることであり、
世界=自分が認識できることのすべて=思考のすべて=言葉で表現できるもの
というのは違和感がある。
思考を超越した世界があるような気がする…という東洋思想が俺の根底にあるから。

 

まー俺の感想はともかく、
で、ここで大きな問題がでてくる。
その"世界のあらゆる物事と言葉はパラレルに対応するんだよ"と上から目線で言ってる奴自身は"世界のあらゆる物事"の中に入るのか?という問題である。
それは世界のあらゆる物事の外側から眺めてる奴じゃないと判断できなくない?と考えられるからだ。
言い換えれば、"全ての要素を含む集合"があるとして、その"全てを含む集合"だと定義づけてる要素は、その集合に入ってるのか?という問題。

 

結論からいえば、矛盾する。
この矛盾が後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームを形成する核となった、らしい。

で、その言語ゲームって何?という説明は多少ヤヤコシイ。

 

本書の例では、机と机で無いモノの違いってどうやって判断してるのか、を考えている。

木でできているのが机か?と言われたそうでない机もある。
足が4本あるのが机か?と言われたらそうでない机もある。
さっきまで机じゃなかったのに、コレを机としよう!とすることもある。
…んじゃ、机って何だ?と言われれば、各個人にモヤ~っとしたイメージがある。

 

その机のイメージって何だ?といわれると、それなりに辞書っぽい説明はできるが、世の中にあるすべての机を説明しつくせるものではない。いくら言葉があっても全ての机を説明しつくすことはできないが、コレって机だよね?と誰もがわかる。

 

さらに、机のイメージ、机の意味は時代で変化していく。
まず、自分が生まれる前から机はあった。
つまり、自分を取り巻く社会がすでに机かどーかを判断するルールがあるということになる。
なので、子供であった自分は社会のルールを理解することで机だと理解できる。

でも、百年前の机、千年前の机、1万年前の机は少しずつ違う気がする。
それは何かエライ人がコレが新しい机だ!と発表したところで、皆が受け入れないと机にならない。誰か特定の人がルールを決めるのではなくて、皆がなんとなくそうかな~と変化させていくものである。
この変化しちゃうというのが言語ゲームの重要なところである。

 

俺なりに言語ゲームをまとめると、
世界のルールは、自分がいる前からある。自分はそのルールを理解することはじめて世界がわかる。ただし、そのルールをどのように理解しているかは他人にはわからない。しかもルールは固定されたものではなく、ルールが変更できるルールによって、どんどん変化していく。

 

ーーーーーここは独り言ーーーーーー

ハタと思い返すのが、システム論における自己組織性。

torisoba-bekunai.hatenablog.com

著者の今田高俊は、要するに科学って何だ?みんな科学、科学ってわかったように言ってるけど、それぞれ言ってること違くない?化学や物理学なんかの自然科学分野、心理学・社会学の人文科学って全然意味違くね?という問いからはじまる。
つまり、先ほどの「机」が「科学」に置き換わっているワケで、科学哲学の言語ゲームというワケだ。

 

で、その皆が科学っていってる考え方は、時代と立場によって微妙に異なっているんだよ、と指摘する。
んでもって、ここら辺あたりの社会学も科学といえる境界線の内側じゃね?と提示すると同時に、まあ科学という厳密な学問でも、自らのルールによって意味が変わっていくことを理解しようぜ、という内容である。


思い出すのは、自己組織性の最後に登場する螺旋図。表紙の絵にもなってる。縦軸も横軸もなにも書いてない螺旋図が一体何を意味するのかよくわからなかったが、本書の言語ゲームにおける1次ルールと2次ルールの概念…つまり螺旋図の横軸が1次ルールで縦軸が2次ルールだと解釈すればいいんじゃね?と、何かわかった気がした…!十年以上疑問に思ってた謎がなんか解けたような気がする。。

ーーーー独り言はここまでーーーー


橋爪大三郎の本って、むしろ余談が魅力でもある。

 

ソ連が崩壊して、資本主義vs共産主義の思想上の戦いは終わった。次にポスト・モダンがやってきた。デリダとかフーコーとか。彼らポストモダンの大きな枠組みは、資本主義・自由主義への批判である。つまりは左翼思想の残りカスみたいなもんだよ、と。

 

いや~、さすがは橋爪大三郎御大。それぞれの思想、特にポストモダン言語ゲームになぞらえて、それぞれ蛸壺化してしまった思想は言語ゲームの構造で理解し、変化すべきじゃね?と説く。

 

さらに価値相対主義って要するに無責任じゃねーかコノヤロウ、と。逆に責任をもった価値相対主義…多様性を尊重すべきという奴は、全ての人間に暴力を伴ってでも多様性を強要する。そこの矛盾をどう回避できるか考えろコノヤロウ、と。

 

俺が何故エコロジーが嫌いか?というと、彼らは善意で暴力をふるうからだ。

 

あと、江戸時代から明治維新にかけての余談も楽しい。

 

江戸時代に封建制度の根本思想として推奨された朱子学は、そもそも徳川の江戸幕府の仕組みを否定するものだという指摘である。

朱子学はもともと日本の思想ではない。宋の時代の科挙、つまり試験の結果がよければ身分が上がる仕組みをOKだとしていた思想である。
江戸時代に科挙みたいな試験制度は無かった。ここに江戸の封建制度朱子学にひとつ矛盾がでてくる。

 

そもそも封建制度は道徳による政治である。最も道徳心をもったヤツがトップになることができる(なるべきだ)、というのが封建制度の要。


だとすると、天皇と将軍の関係ってなんだ?
つまり、天皇ははじめ最高の道徳心を持っていたのでトップになっていたが、ある時点で徳を失った。(笑い話だが、理屈の上ではそうなる)かわりに徳をもった将軍に政治をまかせてるんだよ、という理屈になる。

 

ならば明治維新ってなんだ?
というと、天皇に最高の道徳心が戻ってきたので将軍から天皇にバトンタッチする運動だったという理解になるわけだ。

おお~、なるほど!面白い!

ドライブ・マイ・カー

某Hが"見ろよォ~"と言うので見ました。
「ドライブ・マイ・カー」


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結論から申し上げますと、
確かに3時間は長い。前半は全然話が進まないし。。

映画の中で演劇を演ずる、という2重構造になってる。その2重構造と絡めて、最後まで演劇の舞台口調。しかもチェーホフぐらい知ってて当たり前という前提なんだけど、無教養な俺は読んでませんでした~スイマセンねぇ~ハイハイ。
…でも俺ぁ嫌いじゃないかな。
けど、嫌いな人の気持ちもわかる。
んでもって、賞を総ナメにした理由もなんとなくわかるが、そこまでオモロイか?という気持ちもよくわかる。

 

で、この映画、何がオモロイの?
…以下、自分なりにまとめてみた。

 

どういう内容かと一言でまとめれば、
身近な人が亡くなった喪失感と、やがて前向きに生きようとする人の話。

 

この映画のスジをざっとまとめるのはなんか難しい。
物語は前編・中盤・後編の3つに分かれる感じで、
前半の舞台は東京。妙に安っぽい出来事が断片的に語られる。
中盤の舞台は広島。演劇の練習がとにかく長い…。
後半で、やっと(?)不穏な空気が流れ始める。

主要登場人物は
 ■主人公A(役者:西島)
 ■主人公の妻X(霧島)
 ■間男B(岡田)
 ■運転手C(三浦)
で、完全なネタバレを避けて説明すると、
東京在住の主人公Aは、妻Xと間男Bの関係を知ってるんだけど言い出せない。
なんか妻Xが言いたそうな感じのまま突然死亡する。
以上が前半。

 

中盤は、舞台が広島になる。
主人公Aの仕事は舞台監督(演出家?)で、チェーホフ「ワーニャ伯父さん」の舞台をすることになり、なぜか間男Bを主役に抜擢する。
その舞台監督の仕事中に運転手Cと出会い、毎日の稽古の送迎をしてもらう。

 

…この舞台稽古の場面がとにかく長い。
まずは言語がごちゃ混ぜ。日本語・中国語・韓国語・英語・ロシア語、さらに手話!までが入り乱れて会話するというインテリが好きそ~な眠くなる演出。。
さらにこの劇中劇である「ワーニャ伯父さん」とのセリフがナレーションのようにずっと語られるのだが、そのセリフはこの映画自体とリンクするようにつくってあるだろうことは容易に想像できるけれども、俺、その古典知らないんだよね。。んでもって、その劇中劇の稽古中の感情表現を映画自体の感情表現とリンクさせてるっぽいので、これまたわかりにくい。

そこらへんで、この映画がつまんね~というのもわかる。
説明的なカットは極力避けてるため、前半から登場人物は何を考えてるのかわからないのと、中盤の意味があるのか無いのかわからん劇中劇の稽古をず~~~っと見せられるのは確かにタルイ。

 

で、後半は、ついに主人公Aと間男とが向き合って…。
という展開。

 

とりあえず、なんで海外の賞を総ナメか?といえば、コレはヨーロッパ圏でウケる要素満載だと思う。国際的に評価できる作品とは何かといえば、以下の3つ。
1)映画を含むコンテンツの文脈に沿っているか?
原作は村上春樹だけどもその下敷きはチェーホフ「ワーニャ伯父さん」、それにチラっと「ゴドーを待ちながら」なんかもでてくる。構造的に古典からしっかり仕上げてますよ~インテリの皆さん!というのがわかる。

 

2)時代性はあるか?
日本語・中国語・韓国語・英語・ロシア語、しかも手話を交えて古典演劇を演ずる、といういかにも欧米リベラルが好きそうなネタ。
人種も国家もバラバラなんだけどもメンバー全員がひとつの作品・世界を成立させようと努力する姿にEU諸国民なんかは感動されるんじゃないでしょうかと、俺は鼻クソほじりながら見てましたけど。

 

3)目新しいものはあるか?
これは俺、わかんねぇ。。G監督ならわかるんだろうけど、なんかあるんでしょうねぇ。。

 

まあ、この作品の核心部分はエヴァのシンジ君みたいにウジウジする心情が何重構造になってるトコではないでしょうか。

 

主人公Aはもともと性格的にウジウジするタイプなので、妻Xの不倫も死んだこともウジウジしてるだけでなんもできなかった。今さら感情を爆発させてもどうにもならないので、ウジウジするしかない。

 

主人公Aは妻Xが死んで、結局のところ妻Xが何を考えてたのか知ることは不可能で、自分自身で勝手に折り合いをつけなければならない、とウジウジするしかない。

 

劇中劇で主人公Aが演ずる役どころもこれまたウジウジする役で、ウジウジしてる。そのウジウジする主人公Aを劇中劇のセリフがやさし~く包み込む。

 

実は運転手Cも暗い過去があって実はウジウジしてましたが、ラスト、劇中劇のセリフに救われる主人公Aを見てると、何か自分も救われました的なアレ。

 

 …あたりのウジウジ感。

 

俺は村上春樹の本って何十年も前に数冊読んだだけの記憶しかないけど、登場人物は大体ウジウジしてて、結局なんやったんやろな~的なラストだったような気がする。
本作のウジウジする主人公に対してしっかりした女性が出てきて、さらにモテるけど粗野な男がライバル的に登場する感じってなんか昭和感あるなぁ。
ただ、本作の最後はそれなりにキッパリと終わってる感じはする。

DUNE

G監督が面白いYO!と言ってたので見た
「DONE」

うん、これは凄い。
何が凄いのかわからんけど、スゴイ。


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物語自体はいわゆる貴種流離譚。若者が放浪して試練を乗り越えて王になる、というわかりやすい構造。
ただし、見た目が超スゴイ。俺が新しいSF映画って奴をつくってやらぁ!という気概を感じる。

 

衣装から宇宙船から建物から、現代アートっぽい目新しさがある。
俺ぁ今回の悪役の親玉の背がみょ~~~んって伸びるのが気に入った。あれ空中浮遊できる能力ってことなのかな?まあ、なんかわからんけど不気味な感じがイイ。

 

監督のドゥニ・ビルヌーブの映画は「ボーダーライン」と「メッセージ」と「ブレードランナー 2049」を見てた。すべてにおいて、広くて何もない背景に対象物が映ってる感じで、基本はシンメトリーの、ちょっとキューブリック感のある画面構成。
で、その3本とも物語の前半は超ド級に面白いが、後半にかけて尻すぼみになっていく…浦沢直樹っぽいというか…ラストの着地にいつも違和感がある監督だった。

 

そもそも「ブレードランナー 2049」なんて、超メンドクサイ全世界のオタク連中を相手にした続編をつくる根性もすごかったが、本作の「DUNE」もしかり。

 

「DUNE デューン砂の惑星」の原作を俺は読んでないが、84年にデイヴィッド・リンチ版は見てた。ただし、アレハンドロ・ホドロフスキーのファンとして「ホドロフスキーのDUNE」には強烈な思い入れがあった。
そんな世界中にいるメンドクサイSFオタクを相手に、またSF超大作「DUNE」をつくっただけでもスゴイ。

 

多分、何も予備知識が無い人ってあんまり面白くないかも?とは思うし、ちょっとした島ぐらいデカイ宇宙船なんかが動くシーンとかはテレビ画面程度で見てどこまで面白いかはむつかしい気もする。せめて大音量ならいいかも知れない。

 

しかし、youtubeの予告編で、BGMにピンク・フロイド使ってたのに俺ぁ超興奮してたんだけど、本作に無くない?それを聞きたかったんだけど…。そもそもDUNEにピンク・フロイドって取り合わせはホドロフスキーが考えたアイディアで…と、めんどくさいファンが多い映画なんだよ!