道徳についてのクソ長い話 その4

先日までの説明で、道徳は社会ルールを守ることだとした。
ただ、そーだとしたら、それはそれで困る点が出てくる。

 

ひとつは先日説明した通り、理屈でいえば自分が道徳的にふるまうことは他人の悪をしやすくするということになるということ。

さらにその理屈をすすめれば、メンバー全員がキッチリと社会ルールに従っている場合は、一体誰のために社会ルールを守っているのかわからなくなる。AさんはBさんのために、BさんはCさんのために…と、延々とループするからだ。

ここで、社会ルールを守らないXさんが登場すると、Xさんだけが大きな利益を得ることになる。

 

また別の点で言えば、地域間の価値相対主義…それぞれの社会でのルールはその社会で正しい、善なので、地域外の者は批判できない。
イスラム圏では今でも同性愛者が死刑になる国があるが、それはその国にとっては善である。他国が違うと指摘するのはお門違いとなる。その境界はどこか?という問題もでてくる。

 

さらに根本的な問題は、自分で善悪の判断ができない

 

自分を取り巻く社会ルールは自分がつくりあげたものではない。法律で明文化されたものから暗黙知による生活習慣などについて善悪の判断ができなくなる。もし、疑問を感じた場合は、それが社会ルール化されるまでは悪としなければならない。

 

善悪の判断は社会が決めるのであって自分がしてはいけない。もし、自分が善だと思っていた行為を支持するものが少数であれば、それは間違っていた、それは悪だと判断することが正しいからである。

 

子供は善悪の判断がつかない。なぜなら社会ルールを知らないからである。そこで大人は子供に善悪、社会ルールを教える。それが何故善なのか?なぜその社会ルールを守らなければならないのか?という疑問は差し当たって問題にならない。
単に知らないから教えているだけであり、この場合において無知は罪になりえる。
なぜ人のモノを盗んではいけないのか?と子供が質問したら、結局はそういうルールだからとしか言えない。
所有権があって…とか、自分のモノを盗まれたら悲しいから…とかいう理由は、すべて「所有権がある社会だから」「自分のものが盗まれたら悲しい社会だから」である。
もし所有権の無い社会であれば、そもそも盗むということ自体が存在しないのだ。

 

そもそも、だ。

そもそも道徳は何のためにあるのか?といえば、幸福のためである。その幸福になるのは誰か?といえば、私自身を含む同じ社会のメンバー全員である。

 

ここで最大の難問がある。

 

道徳は理解したうえで、何故自分は道徳に従わなければならないのか?という疑問である。

 

私自身は、他人の幸福を知りえない。
なぜなら私は他人にはならない、なれないからである。同じく、他人も私にはならない。しかしながら、道徳は他人の幸福のために私の自由を制限する。私が不幸になることで他人が幸福になることは善である。

それって矛盾しないか?

幸福を追求することが善であれば、あえて社会ルール=道徳に従わないことがあるのではないか?

 

この文章の冒頭で説明したAさんはBさんのために、BさんはCさんのために道徳的にふるまうが、Xさんが道徳的にふるまわないことで利益を得るなら、そのXさんは幸せということにならないか?

 

「附属池田小事件」の宅間守は、驚異的に反社会的行為であった。
彼は一般的な知識レベルとしての道徳も法律も知っていたことは間違いない。
そのうえで、彼は自身の幸福のために弱者を殺害したとしか思えない。

 

そのような幸福、自由は、実は本当の自由ではないとカント倫理学あたりは否定するだろう。勝手気ままな殺人など一般化・普遍化できないからだ。

 

しかし、もし、本当に宅間守がそれを望んでいたのならばそれは幸福といえないのか?
殺人を犯して自分も死刑になるという破滅的願望は、決して誰しも持つものではないが、まさしく宅間守自身にとっての道徳的行為であったと、内在的理由までを否定できないのではないか?

 

別段、俺は宅間守をかばう気は一切ない。死刑で当然であるし、もし死刑以上の刑罰があればそれを俺は望んだだろう。

 

しかし、宅間守のしたことは法律に違反したので悪だ、と主張する人々と俺とは多分、話があわない。

 

宅間守が「道徳的行為は理解したうえで、自分の意志で道徳に従わなかった」と主張したなら、道徳=社会ルールだよ説では善悪を答えられないように思えるからだ。

 

道徳=社会ルールだよ説、つまり社会契約説で善悪を判断しようとすれば、自分という特別なもの…主体とか主観でもいいけど…の特性を一切考慮できない。

 

なぜ自分は道徳を守らなければならないのか?道徳を守ることが本当に幸福なのか?という問いを考えたとき、道徳=社会ルールだよ説では善悪を説明できなくなるのである。