道徳についてのクソ長い話 その5

道徳とは、自分の欲望をおさえて他人の欲望をかなえようとする社会ルールである。
そして、道徳とは幸福のための手段である。

 

…とゆーのが、先日までの俺の説明であった。
その道徳観による弱点については"その4"で説明したが、あとひとつ、弱点というか微妙な点が残る。

 

それは、道徳そのものが人生の目的になってしまう、ということ。
幸福のための手段であった道徳が、逆転して、道徳を守ることが幸せになってしまうことがある。

 

往々にして真面目な子供によくみられる。ちびまる子ちゃんに登場する眼鏡の委員長はルールに厳しい。それはルールに従うこと、つまりは社会道徳に従うことが委員長にとっての幸せだからである。

多少年齢が上になってくると、単なるチクリ魔みたいな奴がでてくるが、彼らは彼らなりの正義に基づいているといえよう。

 

まあ別段、それは必ずしも困ったことではない。社会維持という観点からすればむしろ推奨される。
ただし、常にルールを守ることが幸福を最大にするとは限らない。

…今具体例で思いついたのは、大震災のとき、差し入れの食い物の数が避難住民全員にいきわたらないために結局誰にも手渡さずに腐らせた、という話。
これは単純な損得で言えば損である。しかし道徳的なのか否かは意見がわかれるところだろう。

 

ルールを守っていること自体がその人の人生の目的であり幸福であるならば、果たして良いと言えるだろうか?

 

「相模原障害者施設殺傷事件」の植松聖によれば、事件の動機は、世の中を良くすることであったと述べている。
重度の障害者は生産性が無い。そして生きるために常に何人もの助けが必要で、使われる税金を考えると多くの国民が負担を強いられている。そのため、殺した方が世のためになるのだ、という理屈である。

 

彼は当初、身障者の介護を務めていた。そのとき、風呂でおぼれた身障者を助けたのだが、その障害者の親族らはその話を聞いてむしろ落胆したという。
そのような経緯を含め、表に出さずとも近親者ですら忌み嫌われている存在であると思いはじめる。

 

その思考は…障害者はいない方が良いという思考は、一般的に行われている出生前診断による中絶と何が違うのだろうか?

 

妊娠中に出生前診断により障害を持つことが判明すると、ほぼ100%近い確率で中絶が行われる。
法律上は違いはあろうが、道徳性についてはどこまでの違いがあるというのだろうか?

 

彼は犯行前に国会議員宛に手紙を書いている。その内容は、UFOを見たなど支離滅裂な部分を含むが、要するに国家にとって重度障害者はいない方が良い、というものである。
彼は、彼にとっての正義のために殺人をした。その正義とは、国家の幸福のためである。
国家のカネ回りを良くするために、自分の手で非生産人口を減らしたのだ。

 

現代社会は知的労働重視の資本主義社会である。
知性が低い人間を必要としない社会である。
障害者がなぜ障害者といわれるのかは、今の社会が彼らを必要としない社会だからとしかいえない。

 

少子高齢化が、社会保障が、年金が、国力が云々…と主張するならば、老人や障害者など非生産人口を減らせば減らすほど問題は解決するのは明らかのはずだ。
その思考は、植松聖と何が違うのだろうか?

 

いやいや、そもそもそーいった弱者を守るべく年金なんかの社会保障が先立っているのだという意見もあろう。ならば、現在の国民年金の受取額が生活保護の金額を大きく下回っているのは、単に老人を自死に追いやっているだけではないのか?

 

いや、植松はそこまで考えてなかったでしょ?と言う人もあるだろうが、
つい最近も障害者施設での障害者への虐待事件が明るみになっている背景は、植松と何が違うのか?

 

カント的道徳性からいえば、植松は裁けないはずだ。
なぜなら、世の中を良くしようとする意志こそが重要で、その行為は問題にしていないから。

ミル的道徳性からいっても、植松を裁くのはむつかしいだろう。

 

アリストテレス的観点からは裁けるだろう。
「中庸」という思考から、正義のための殺人は逸脱しているだろうからだ。

"スーパー!"という映画をご存知だろうか。
自らスーパーヒーローに扮して悪を退治するという物語なのだが、その主人公=自称スーパーヒーローは、行列に横入りした奴を、巨大なレンチで殴りつけるのである。
明らかに過剰だが、これは正義なのかといえば、本人にとって正義なのだ。

 

んじゃお前は植松を肯定してるのか?
といわれれば、そうではない。単純な批判はむしろアブナイと言いたいのだ。

 

この事件で唯一、おおやけの場で的を得た批判はド変態小説家・岩井志麻子ぐらいだ。
彼女は「我々はいずれ老人になり無力になることを考えろ」と言った。
誰しもがいずれは老衰を迎える。その時、自死すべきか?
老人は皆殺しにすべきなのか?と問うた。

 

ちなみに成田祐輔は、老人は集団自決しろ、若者の未来のために老人は死ねと説いているのだが、文脈からしても"若者"の中に重度障害者は入っていないとしか思えない。
本質的に植松聖と成田祐輔は同じ道徳観としか思えないのだ。