道徳についてのクソ長い話 その6

ニーチェは道徳を、善悪を逆転させたと言われる。
俺のつたない理解でアレだが、その逆転とは何か?それは"神=善"より先に"悪"があると解明してみせたことにある。

 

一般的な善悪というのは土着の宗教観に基づく。西洋ではキリスト教だ。
キリスト教に限らず、およそ神様ってのは世界をつくる・あるいは世界ができたとき一番はじめにいる存在である。その神様の言うことを聞かないと悪とされる。
ニーチェは、実は順番が違うと指摘した。

 

例えば、家や家族を失うことがある。
原因は台風や地震であったり、戦争であったり、個人的な恨みであったりする。
残された人は、その原因に理由=因果関係がないと納得できない。
そして、その悪い状態から一発逆転して良い=善い状態へと変化させようとする。

 

このとき、原因が天変地異や戦争や疫病なんかで個人ではどーすることもできない場合…というか、ほとんどがそーいう場合なのだが、その立場になった人が唯一といって逆転できる方法は、被害者である自分が善人になることである。

 

危害を加えた側、加害者を悪として裁くことによってのみ、被害者たる自分が善人として救済されるのである。いや、むしろ被害者としての自分が加害者よりも立場が上だということになる。

被害を被った自分は…被害を被ったということだけで"善"なのだ。

自分は"善"である以上、加害者は"悪"であり罪をつぐなう必然がある。

 

ここが善悪が逆転したという所以であろう。
その弱者にならざるをえない者の恨みつらみをニーチェルサンチマン(怨念と訳される)と呼んだ。

 

興味深いのは、その罪は必ず神によって許されることにある。
というよりも、罪というのは許されることが前提である。
そうでなければそもそも罪にならない。
神によって許されない罪などもとから存在しないからだ。

 

有名な「神は死んだ」というニーチェのセリフは、

その善悪の構造から神が"発明"されたことを発見したからだ。

 

従って、そもそも罪悪感を持たない人間を神は裁くことができない。
キリスト教の本質は、罪悪感ともいえる。

 

日本文化を研究したアメリカ人のルース・ベネディクト菊と刀」によれば、日本は"恥の文化"と分析する一方、アメリカを"罪の文化"とした。

 

キリスト教カトリックでは「告解室」という小さな押し入れみたいな部屋に入り、自分の罪を告白し、神に許してもらうという儀式がある。これは、自分がやったこと(行為)どころか思っただけ・想像しただけ(意識・内面)ですら罪であり神によって裁かれるという宗教観である。
キリスト教は、徹底的に罪悪感を植え付けることで信者を獲得する。

 

今回の安部元総理襲撃事件の犯人の動機は、旧統一教会による母親への洗脳という。

統一教会に限らず、キリスト教系の信者獲得手段として、まずは罪の意識を植えさせることである。
これは菜食主義とかエコロジーとか、西洋系の"主義"論者の基本思考ともいえる。
「あなたは実はこんなに罪深いのです!」と説明する。
肉を食うと動物可哀そう、クジラは頭いいんだよ、エコじゃないと南の島が海に沈むとか、いろいろな理由をつけて、これまで意識しなかった"罪"を感じさせるのである。

 

そして罪は必ず許される方法が提示される。
先ほど説明したように、罪は神による許しとセットである。
統一教会によれば、神による許しとは献金であるという。
罪を感じてしまったが最後、もう止まることはない。
何しろ、自分で自分を許すことができないため終わりがない。

 

一方、今回の襲撃犯はルサンチマン(怨念)をため込むしかなかった。
個人であの宗教団体を相手に勝てる方法はなかったからだ。