システム論 その3 ネットワーク型組織

個人的な体験からいえば、携帯電話とネットが普及し始めたのは90年代頃です。
当時、携帯電話を個人で持ってる奴は金持ちだけでした。ネットを使うのも一部のマニアだったし、それも電話料金がアホほどかかるので皆、夜の23時から朝まで電話料金が一定になるサービス(テレホーダイ)を使ってました。

 

ネットが登場するまで、コンピューターというのは基本的に1台で使うモノでした。複数台を連結させて使うほどの、すげえコンピュータ・システムであっても、制御する側は1台、他はすべて制御される側にキッチリと別れてました。


図にすれば、三角形の頂点に制御するコンピュータが1台あって、他のコンピュータは下部組織になる。いわゆるピラミッド型というわけです。

 

一方、インターネットはピラミッド型とは異なります。
そもそもインターネットとは軍用に開発された仕組みです。ピラミッド型の場合、もしも敵が頂点のコンピュータを破壊すれば、同時に連結されたコンピュータがすべて使えなくなります。ある程度の攻撃をうけても情報伝達ができるような仕組みとして開発されたのがインターネットです。

 

なので、インターネットは頂点・中心を持ちません。一か所が壊されても、他の拠点どうしで連絡できる、という仕組みなのです。

以下は拾ってきた図ですけど、左側がピラミッド型、右がネットワーク型ですね。

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インターネットが流行り始めるのは90年代ぐらいだと思うんですけど、当時、そんなに社会的インパクトはなかったと思います。

それは、ずっと以前の固定電話の普及率と同じ理由です。
なぜなら、自分一人だと何も使えないが使う人が増えるほど加速度的に便利になる、という特性を持つからです。

 

徐々にネットが普及するにつれ、あれ?これ、もしかして凄い使えるんじゃね?という人が加速度的に増えていき、さらに社会学的にもネットってなんか新しいんじゃね?と考える風潮がでてきました。

 

前のブログでいうシステムとは"要素の集合"ということで、ピラミッド型もネットワーク型もシステムってことでいんじゃね?システム論として考えるのもOKじゃね?という感じです。

 

ところで、社会学には組織論という分野があります。

組織、つまり人間がたくさん集まって仕事するにはどーしたらいいか?という分野を研究する学問だと思ってください。

そこで、これまでの人間の組織図ってピラミッド型じゃね?というわかりやすい話があります。

 

普通の会社とか役所とかは、ひとりか少人数の偉い人がいて、その下に中間管理職がいて、その下にさらに多くの下っ端がいて…という図です。

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この組織体系は、目的と行動が決まっている場合には有効です。

例えば軍隊です。
組織に属する全ての個人に役割が決まっていて、誰の指示でどう動けばよいかはあらかじめ決められてる場合、円滑に機能します。

 

一方、何をしていいのかボンヤリしてる場合はうまく機能しません。
例えば、新製品とか新しいアイデアを考え出す、という場合です。

このとき、組織の上下関係を無くしてネットワーク型にした方がいいんじゃね?というのが80年代後半たりから提唱されたネットワーク型組織です。

 

今井賢一金子郁容「ネットワーク組織論」

ネットワーク組織論

ネットワーク組織論

 

 この本、専門的な本ともいえますが、素人でも読めます。読めますが、正直、中身はモヤ~っとしててまとめるのは難しいでしょう。ネットワーク型組織ってイイことあるよ!みたいな本だと思ってください。


今、探しても本棚に見つからなくてですね…確かこの本、前のブログにある動的平衡あるいは負のエントロピーっぽい話のあたりで、イギリスのバンドSoft Machineのアルバムthirdの冒頭の曲faceliftが、無秩序から秩序が生まれてくるような曲だよね!みたいなことをかなり唐突に書いてあったハズです。

Soft Machine好きな俺にはたまりませんねぇ。。


Soft Machine - Facelift

この曲、冒頭5分ぐらいは単にノイズみたいな音が出てるだけなんで、まあ、好きな人だけ聞くと良いと思います。

 

soft machineはともかく、ネットワーク型組織云々の話をしてるのは日本ぐらいなんじゃないか?という気もします。
よく日本的経営の特徴として終身雇用制が言われます。

昨今ではそうでもないですが、それでもアメリカほど頻繁に転職する人はほとんどいません。その原因は人事評価制度が~新卒制度が~という話もありますが、最も大きな原因は、法律で社員をクビにできないからです。


ハッキリ言って、無能な社員はドロボーか何かして警察沙汰にでもならない限り、会社側からクビにすることは法律上難しいため、仕事を取り上げて職能給を減らして最低基本給だけにして、自発的に退職してもらうぐらいしか法的には手段がありません。


俺の正直な印象からして、転職できるほど有能な人間はほんの一握りです。むしろ多くの社員はクビにできないという日本の法律に守られている側です。

 

日本はよく生産性が低い、と言われます。言い換えれば、その分だけ無能社員たちに人件費を支払っているといえます。生産性が低い=悪、というのは株主の立場であって無能社員の立場ではありません。


つまり、無能社員がクビにならずに給料をもらっているからです。それが社会悪なのか、あるいはセーフティ・ネットと言えるのかは見方の違いともいえます。
この話の根本原因として、実は住宅ローンがあるんじゃないかと俺は思ってるんですが、まあ横道にそれちゃうので今度にします。

 

んじゃ、仕事ができる人は損してるんじゃね?というのはその通りです。
景気が良くて全体的に年収が右肩上がりの場合はそれほど問題にならなかったでしょうが、バブル崩壊から年収が右肩下がりになってしまった現在、なんで俺が稼いできたカネをみんなの給料に分散しちゃうの?という反動がでてくるのはわかります。
ただ、仕事ができない人が大半なので、正論であっても多勢に無勢といったところでしょうか。

 

まあ、それはともかく、多くの社員を抱えたまま、売り上げが下がってきた…なんかこれまでだとヤバイ気がする…でも、みんなで何をしたらわからん…みたいな状況になれば、ピラミッド型組織よりもネットワーク型組織の方がいいんじゃね?という胡散臭い話が語られるようになりました。

 

なんで胡散臭いのか?といえば、ネットワーク型組織が良いという証拠なんて何もない、というのがひとつ。
そして、新しいアイデアって何?というのを科学的に定義できない、ということがあります。

 

とはいえ、ネットワーク型組織のメリットは、あるといえばあります。
みんなで話し合いをすると不平不満が出にくい、ということです。

 

こんな実験があります…と紹介しようとして詳細を忘れました。。
(こーいう話は詳細こそが肝心なんですけどねぇ…)
何人だったか…確か5人ぐらいでカードの裏に書かれた図形の種類を全て当てるゲームです。
カードの種類は計7種類として、5人にはそれぞれ以下の感じで5枚のカードが配られるとします。
具体的にはこんな感じで、カードを配るとします。
 Aさん ▽,△,▲,▼,〇
 Bさん △,▲,▼,〇,□
 Cさん ▲,▼,〇,□,△
 Dさん ▼,〇,□,△,▲
 Eさん 〇,□,△,▲,◎

カードを他人にみせてはいけません。
なので、各人はそれぞれ何のカードを持ってるのかはわかりません。
このとき、テストの条件を2つ設定します。

 

条件1:
全員、仕切り版のある長椅子に座ってると思ってください。
で、Aさんだけが他のメンバーと話ができます。
なので、全ての人はAさんだけにしか話すことができず、他の人の話し声も全くことができません。

 

条件2:
全員、順番に円卓に座ってると思ってください。
両隣の人とは会話できますが、それ以外の人とはまったく連絡できないとします。
つまり、
 Aさんは、BさんとEさんと話すことができますが、他の人とは話ができません。
 Bさんは、AさんとCさんに話すことができますが、他の人とは話ができません。
 Cさんは…以下、同じです。

 

もちろん、条件1がピラミッド型組織で、条件2がネットワーク型組織を模しています。

 

さて、どういう結果が出たかと申しますと、
条件1:ピラミッド型組織の方が回答が早い。ただし各メンバーは不満が残りやすい。
条件2:ネットワーク型組織の方が回答が遅い。ただし各メンバーからは不満が出にくい。

 

なんかわかる気もします。

 

これをどう解釈するかは人によって違うとは思いますが、
 仕事が早い方を良しとするか
 メンバーの不満が無い方を良しとするか
どちらをとるかで組織形態を変えるといいですよ、という話で解釈するのが一般的でしょう。

 

しかし、目的が決まってない組織ってなんかあるんですかね?
何か仕事をやるために組織化されたのであれば、目的は決まってます。
その仕事が無くなれば組織を解散させるべきです。

 

それが、会社なんかになると、仕事がなくても組織だけがズルズル残ってしまう、という現状が問題じゃない?それってピラミッド型とかネットワーク型とか関係なくない?というのが俺の正直な感想です。

システム論 その2 ホロンと一般システム理論

当時、俺は中島らものファンでした。
著作はもちろん、中島らも主催の劇団リリパットアーミーを見に、下北沢に行ったこともあります。

 

その下北沢のスズナリ劇場が開場するまでの待ち時間、俺含めてアホな友人らと路上で酒を飲みをはじめたんですが、丁度その時、座長?のわかぎえふ氏が偶然通りかかって

「君ら、路上で酒盛りか!」

と、呆れながらも笑顔で声をかけてくれたのが記憶に残ってます。

 

あ…そんでですね、

 

その頃、アーサー・ケストラーのシステム概念のファンでもありました。
ケストラー「機械の中の幽霊」

 この本は不思議な内容です。別段、難しい数式みたいのは出てきません。当時最新の生物学や進化論などが縦横無尽にエッセイのように語られていて、まるでテーマがごちゃ混ぜで一見とりとめのない話のようにも思えるんですけど、その奥底には"ホロン"と命名されたシステム理論が語られています。

 

ホロンとは何か。
それはまるでロシアの人形、マトリョーシカのような入れ子を想像してみてください。
大きいものの中には、それと同じ性質の小さい奴がいる。その小さい奴は、さらに小さい奴がいる…以下、それを繰り返すことで世界が説明できる!という理論だと思ってください。

 

言い換えれば、「全体は部分となり、部分も全体となりうる」という禅問答みたいな話なんですけどね。

 

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これはケストラー「ホロン革命」に載ってるホロンのイメージ図です。

…?なんのこっちゃ?という疑問は正しい。

 

ホロンの具体的な話をしようと思って、この本の内容を思い返してみたんですが、これがほとんど思い出せないあたりが俺の知性の限界ですなぁ。。


ちなみに、この本、某Hがフィリピン勤務の時に現地に送ったんですけど、おぼえてますかね(笑)もしかすると今でもフィリピンのどこかでケストラー「機械の中の幽霊」を手に取ってる日本人がいるかも知れないと思うとホッコリします。

 

えー…っとですね、例えば人間をホロンだと考えてみますと、人間って60兆個の細胞でできてるらしいののですが、その細胞も核とかミトコンドリアとか細胞壁なんかでできています。さらに核はDNAがあって、そのDNAは一定の分子配列でできています。その分子配列は…と、それぞれ、モノには各要素が集まってできています
一方、人間が複数集まって、肉親・友人・知人としての人間関係=社会が構成されます。その身元がわかる人の範囲をこえて市町村の地域社会が構成されています。さらに県、そして国家が構成されます。

 

と、見ていくと、小さいレベルから大きいレベルまで、各要素の集合体である、といえます。

 

家族を全体と考えれば人間は部分になるんですが、細胞レベルで考えれば人間は全体になりますし、家族は国家の部分ともなりえます。

これが全体は部分となり、部分も全体となりうるという意味です。

 

ちなみに、それってフラクタルじゃね?というご指摘はスルドイんですが、フラクタルは純粋な数学、幾何学であって、定量的=数値化できるものですが、ホロンは定性的…数値化できない性質…です。んでもって、フラクタルも結局は使い道がイマイチわからないまま廃れてしまった感じはあります。


ケストラーのホロンに関するもうひとつの著作は「ホロン革命」です。

ホロン革命

ホロン革命

 

この本、実はG監督に差し入れしてます。おぼえてますかね?
武蔵小山か西小山か目黒周辺の駅前でウロウロしてたとき、駅近くの古本屋で、道路に安売りで並べてた本の中に偶然この「ホロン革命」見つけて、これ、攻殻機動隊の元ネタだよ!ってその場で渡したんですよ。 

 

この「ホロン革命」の方がホロンについての説明がある程度一貫してて詳しいんですけど、中身としてはなんかグチャグチャにみえる「機械の中の幽霊」の方が魅力的な気もします。

 

ともかく、このホロンという概念は、思想・哲学方面のさらに一部の奇特な方々にはウケました。

 

攻殻機動隊の英語のタイトルはゴースト・イン・ザ・シェル(Ghost in the Shell)ですが、ケストラー「機械の中の幽霊」の原題はゴースト・イン・ザ・マシーン(Ghost in the Machine)です。

 

俺はGhost in the Shellと見た瞬間にピンときたんですが、作中でケストラーもホロンも直接的に語られてはいません。しかしながら、そもそも人間を機械と見立てたとき…つまり人間機械論としたとき、攻殻機動隊のいうゴースト=意識を持つのか?そもそも意識とは何か?というのはケストラーのホロンの重要なテーマであります。

 

押井守のアニメ映画版でも、最後、主人公個人の意識がネットに移行する、というあたりで個人の意識=下部階層、ネットでの集合意識=上部階層へという説明は、まさしく意識がホロンとして階層レベルで語られてる場面だと思うんですよ。

 

さらに、テレビシリーズ第一期 STAND ALONE COMPLEXの最終話26話で「好奇心」について語る場面があります。この「好奇心」について、ケストラーは生物における極めて重要な要素として語ってます。

 

そこへんからして、攻殻機動隊はケストラー「機械の中の幽霊」から生まれた作品だと思ってるんですが、まあ、知らなくても楽しめる作品なのは間違いないです。

 

ちなみに、イギリスのロックバンド、THE POLICEのアルバムにも「Ghost in the Machine」がありますが、ケストラーとは関係ないと思います。俺はそのアルバムだと"Hungry For You"あるいは"Too Much Information"がいかにもPOLICEっぽいホワイト・レゲエ調で好きです。関係ないですねハイ。

 

ケストラーのホロンに関する著作はあくまでも読物であって学術論文という感じではありません。

なので、ケストラーの提唱するホロンは科学の仲間入りとはなりませんでした。

 

前回のブログのシステムは、コンピュータ制御に関するシステムの話でした。これは制御工学とかシステム工学とかと呼ばれる数学で記述可能な科学の分野として知られます。

そもそもシステムは生命を説明する概念だ、と書いたんですが、制御工学が生命だというのはちょっと無理があります。

 

生命の特徴をシステムとして科学的に説明しようとした、初期に最も有名な著作はベルタランフィ「一般システム理論」です。

 これはちょっと読みにくい…というか、本書は科学論文といったおもむきなので、先ほどのケストラーのように一般教養レベルではイマイチ理解できないあたりです。

 

それでもまあ、内容を単純化しますとですね、人間機械論みたいに全体を分解して部分にしてしまうと全体の性質を見失ってしまうゾ、という話です。

 

この著作によって、システムというのが科学分野でも認めらた概念として受け入れられることになります。

が、理数系や生物学系を超えて、社会科学系に応用されるあたりになったあたりで、段々と雲行きが怪しい方向に…って、前のブログと同じオチに…

 

システム論 その1

というわけで、システム論の話をしよーと思ったんですが、そもそもボンヤリしてるんですよ。

これが。

 

それに学術的な話はつまんないですので、G監督がわかってくれそーな話から致しますとですね、銃夢ありますよね、木城ゆきとのマンガ銃夢です。

銃夢(1)

銃夢(1)

 

 その漫画に、よく登場する言葉に"サイバネ"があります。
サイバネ医師とかサイバネ骨法とか。
このサイバネってのは拳法の流派ではなくてですね、サイバネティクスの略です。

 

サイバネティクスってのは何だ?と申しますと、
ロボットを動かすときなんかに用いられる数学理論です。
なので、ロボットが登場する銃夢でよく語られます。

 

んじゃ、そのサイバネティクスって要するに何なの?とゆーのを、ヒジョーに簡単に説明してみますと…例えば、エアコンです。

 

冬に部屋の気温が10度、エアコンの設定温度を20度にして暖房をつけたとき、エアコンは20度になるまであったかい空気を出し続けますが、20度を超えてくるとあったかい空気を出すのをやめます。

 

つまり、
 1、何かの値を設定する。
 2、その値になるまで数値を上げていく。(あるいは下げていく)
 3、行き過ぎると止める、あるいは下げる(あるいは上げる)
こーいうのをフィードバックと言うのですが、これがサイバネティクスの基本原理です。

 

なんでコレがロボットの基本原理になるん?といえば、ロボットがバランスを保って直立しているところを想像してみて下さい。


ロボットが前に倒れそうになると、後ろに体重移動させる。
右に倒れそうになると左に体重移動させる、ってことです。

つまり、上記の1~3でいえば、
 1、常に直立という値となるように設定する。
 2、右に体重が移動している場合は左に体重移動させる。
 3、左に行き過ぎている場合は、今度は右に体重移動させる
ってことです。

 

ロボットが歩くというのを単純化して言えば、一旦体を前に倒れさせ、完全に倒れきるまでに足を前に出してバランスを保つ、という動きを繰り返すわけです。

現実にはアホほどヤヤコシイ数学使いますけど。。

 

…で、これがなんでシステム?と言われそうですが、
システムの概念は多くの分野を取り入れたボンヤリとした話でして、初期段階のシステム理論とは、機械を制御するためのコンピュータ理論として、成功を収めました。

 

 これで、ディスティ・ノヴァ教授に一歩近づいた!

 

ホントを申しますと、システム論のはじめは生命を科学的に説明しようとしてはじまった話だったんですが、とりあえずは機械で人間みたいな奴つくろうぜ!的な方向で発展しました。

なので、ロボットとかがでてくるワケです。コンピューターは人間の脳みそのかわりというワケです。

 

先日のブログで、部分に分解しても説明できない性質を持つのがシステム、という説明をいたしましたが、電子計算機を分解してみても、なんで計算できるのかは説明できません。

 
この、計算機の部品を分解したところで説明できない計算機能ってのは、システムじゃね?という解釈です。

実際には、機械を制御する部分だけ分離した=ソフトウェアでコンピュータ含め機械を制御する、というのが画期的だったという話です。

 

…というわけで、ソフトウェアで機械を制御するのがシステム、とゆー解釈が初期のシステム論で、俺は正直、実用的なシステム論は現段階でもここまでぐらいじゃね?と思ってます。

 

映画「イミテーションゲーム」に登場する暗号を解読する巨大なチューリング・マシンは、初期段階における具体的なシステムだと思います。


映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編

 

機械の制御・コンピュータの世界で役に立ったシステムは、やがて社会学に応用されはじめました。その辺から妙に胡散臭い眉唾な話になっていくんですけども…。

 

次回は、社会学におけるシステム論の話…え?つまんない?
攻殻機動隊に絡めての話とかしよーと思うんで、まあ…その…すみませんね。。

動的平衡 その2 テセウスの船

テセウスの船、という話があります。
あ、ドラマとかマンガの話じゃなくてですね、その語源なんですけど、

 

ある船の古くなった部品を交換していくと、やがてすべての部品が入れ替わった船になります。

その時、その船は最初の船と同じ船だと言えるのか?という話です。

 

wikiにはこんな説明がされてます。

ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か

 

 

ひとつ前のブログ、福岡伸一の話に戻りますと、人間の細胞約60兆個は1年で大部分が入れ替わり、数年で全部が入れ替わります。物理的には同一である部品はひとつもないのですが、ひとりの人間としては同じである、としか言いようがありません。

 

ホスト側の宮崎哲也は、"記憶"こそが個人の人間たるものでは?と問題提議してみるんですが、ゲストの福岡伸一が指摘するように、記憶も実は非常にあいまいである、という矛盾があるワケです。

 

記憶の仕組みも、細胞レベル・分子レベルで見れば、神経細胞のネットワークであることがわかっています。
テセウスの船でいえば、そのネットワークを構成する神経細胞も次々入れ替わっています。そして、記憶=神経ネットワークという仕組みは使われなければやがて消滅します。つまり、何度も思い出すことで、強いネットワーク=忘れにくい記憶とされるのですが、その記憶自体がビデオカメラのように"本当の記憶"であるかどうかは関係がない、というあたりも問題を複雑にしています。

 

例えば、自分が何者であるか=自分の経験の記憶の積み重ね、とするならば、思い出せない、記憶がスリ替わっている、あるいは捏造であることはよくあります。それでも、昔の自分と現在の自分という記憶は同一であり続けるワケです(もし同一でなければ精神的な病気といえるでしょう)

 

テセウスの船を、別の角度から考えてみると、船と判断できるのはどこからでしょうか?
床板一枚で船とは言えません。では全部の材料をそろえて組み立て前に山積みにしてある"組み立てセット"は船といえるでしょうか?あるいは、船から何の部品を取り外せば船と言えなくなるでしょうか?


船大工みたいな専門家であるならばある程度意見の一致はあるとは思いますが、我々のように全くの素人がイメージするには、かなりボンヤリとした全体としての船、としかいいようがありません。

 

では、それを人間とした場合はどうなるのか?
どの部品がなければ人でなくなるのか?というのは専門家でも一致しません。
そこで、脳死・脳波が無くなれば人ではない=死んでる、と法的に決めたのは問題じゃないか?とyoutubeでは指摘してるわけです。

 

youtubeでも語られた人間機械論、つまり、骨や内臓を足していけば人間全体を説明できるという考え方がある一方で、人間は全体として部品とは異なる特性を持つ、という考え方があります。

 

"部分を全部足し算しても、全体の特性は説明できない"という考え方は東洋思想っぽいんですが、西洋思想でももちろんあります。

 

例えば、システム論、という分野があります。
(最近はめっきり聞かなくなりましたけど。。)
システム、という言葉はコンピュータあたりでよく耳にします。

 

例えば、パソコンなんかは個々の部品に分解できます。さらにソフトウェアもいくつかの構成要素に分解できます。それらを全てあわせて動く…インターネットでエロ動画を見ることができるのも、すべての部品で構成された機械と、機械同士連結するネットワークがすべて連動することで可能となります。この部品=要素を組み合わせた全体のことをシステムと呼びます。

 

しかし、システム論におけるシステムの意味は、全体を構成する要素を組み合わせることで、全体として構成要素とは異なる特性を持つ…システムには構成要素プラスアルファがある、ということです。

 

例えば、"吉沢さん"個人をシステムとします。
吉沢さんのすべての性質を紙にエンピツで書き出すとします。外見的特徴から生い立ち、性格なんかを全て箇条書きしたとしても、全部書き出すことが原理的にできない…つまり、吉沢さんを部分に分解してそれぞれ観察したとしても、決して描き切れない"吉沢さんらしさ"があるのではないか、という学問です。

 

あ…話が長くなってきたので、次回、システム論についてちょっと書いてみます。

動的平衡

G監督から電話「どうてきへいこうって何?」


…え?どうてきへいこう…動的平衡!?…何でそんな話?

と聞いたら、この動画を見たという。
博士の異常な鼎談「ゲスト:福岡伸一


第11回 博士の異常な鼎談「ゲスト:福岡伸一(分子生物学者)」福岡伸一特別講義「生命とは何か」

この鼎談で、生命の本質としての動的平衡が語られている。

 

ここでの動的平衡とは、生命とは「分子を入れ替えながらその同一性を保っている」ものである、という説明がされているが、わかりにくいといえばそうかもしれない。

 

俺も福岡伸一の著作は何冊か読んでたし、「生物と無生物のあいだ」も読んでたけどイマイチ思い出せない。。

 

とりあえず、動的平衡について俺がテキトーに解説してみます。

そーいえば辞書的にどういう説明になってんのかと調べたら

"2つ以上のちからが働いてバランスを保っている状態"

だそうで、なるほど、確かにそうだ。

 

えーっと、生物の話に戻りますと、生物というのは生きてる限り、外部から空気や食べ物を取り込んで、内部から老廃物なんかを排出することで肉体を維持してます。このとき、
 ・外からモノを取り込む。
 ・内部からモノを出す。
という2つのちからによって、肉体を維持=バランスを保っているわけです。
これが動的平衡といわれるゆえんなんですけど、ここでの福岡伸一のミソは、単に飯としてエネルギーを取り入れているわけじゃなくて、体全体の分子構造レベルで常に入れ替わっているということ。

 

体のすべての構成要素…爪や髪の毛はもちろん、筋肉、脳細胞、骨や歯にいたるまですべて入れ替わっている。数年もすれば、ひとつとして同じ細胞は存在しなくなる。しかしながら、人の姿かたち・記憶も何もかも別人になることなく維持されているのが非常に不思議なのだ、と説明している。

 

このyoutubeの解説にもありますが、
そもそも科学の思考方法は、可能な限り細かく分けていくことです。
この思考法を要素還元主義、あるいは還元主義といいます。

 

人間の場合でも、とにかく部品にどんどん切り分けていきます。そして、その部品の特徴を丹念に調べて、再構成させれば、全体として人間がわかる、という考え方です。

 

機械全般、自動車や電化製品なんかの工業製品はコレで全て説明できます。人間もこれで説明できるんじゃないか?という考え方を人間機械論といいます。

現在の科学の基本概念ですし、もちろん西欧医学の基本でもあります。

 

人間機械論における最大の発見はDNA、染色体でした。これこそが生命の基本設計図である、と。これから部品がつくられて人間ができるのだと世界が色めき立ったのです。

 

ところが、youtubeにもあるようにDNAをもとにした人間機械論では、現実の人間、さらに生命活動全般をうまく説明できないことがたくさんでてきたのも事実です。

 

そこで、人間というか生命というのは"動的平衡"状態のことではないか、と福岡伸一が言ったわけです。
ただ、この"動的平衡"は、福岡伸一が言い出しっぺではありません。
量子力学の祖、シュレーディンガーがはじめて提唱した生命の定義です。

 

そもそも分子生物学という分野もシュレーディンガーがつくったんですが、そのシュレーディンガーにおける生命の定義とは、生命=負のエントロピー(ネガティブ・エントロピー)である、ということです。

 

そう、G監督も電話でエントロピーの話をされてましが、確かにエントロピーこそがこの動的平衡のキモでして、負のエントロピー…つまりは通常の物理状態とは逆でエントロピーが減少するのが生命だ、とシュレディンガーは言ったワケです。

 

え…何それ…って?

 

エントロピーというのは、熱が不可逆的に冷めていくこと、あるいは秩序あるものが無秩序になることをあらわしています。

例えば、熱いコーヒーを放置すると冷めていきます。冷めたコーヒーはどこからか熱を持ってこない限り、一度冷めたコーヒーは二度と熱くはなりません。この熱い状態から冷めていく状態に変化していくことをエントロピーが増大する=正のエントロピーといいます。


別の例でいえば、机の上にある鉛筆が転がって床に落ちた、というのもエントロピーが増大した結果です。低い位置にある鉛筆を高い場所に移すには、必ず外部からのエネルギーが必要になるからです。

 

人間の場合ですと、人間、死んだら肉体が腐り始めます。腐ったら最後、原型をとどめず、骨だけになって最後は何も残りません。生き物が腐るのは正のエントロピーです。
しかしながら、生きてる限り肉体は維持されます。それは外部からモノを取り込んで常に形を維持しようとするからで、肉体という秩序を維持する=負のエントロピーというわけです。

福岡伸一は負のエントロピー動的平衡と呼んでいるわけです。

シュレーディンガーの負のエントロピー説はかなり概念的な話だったんですけど、福岡伸一の話は具体的でわかりやすくなってます。

 

そもそもエントロピーは物理学的概念なんですけど、負のエントロピーは自然現象ではありえません。なにも手を加えないのに勝手にコーヒーが熱くなったり、鉛筆が持ち上がることは無いワケです。ただ、生命については熱いコーヒーと同じく物理・化学現象のはずなのに、一時的とはいえ朽ち果てるはずの肉体を維持しているので、エントロピーが逆転してるといえるのではないか、あるいは、平衡状態を保っているといえるのではないか、ということです。

 

ちなみに、数学的に負のエントロピーっぽいの発見した!という理論に散逸構造理論というのがあります。具体的に言えば、先ほどの熱いコーヒーのなかでおきる対流のコトです。
水分子はそれぞれ意思を持ってません。その水分子に熱を加えると、それぞれ勝手な方向に動きます。しかし、全体で見ると、対流が生じます。鍋の中でおきる縦方向の渦です。
これが無秩序であるはずの水分子の挙動が秩序化する、というので、こいつは負のエントロピーじゃね?と一時期注目されましたが、イマイチ応用が利かないらしいので今ではほとんど語られないよーですけど。。


あ、あと、動的平衡のたとえ話として鴨長明方丈記」がyoutubeで語られてました。
"行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず"ってやつですね。

 

ちょっと俺が思いついた話で恐縮なんですけど、生命=動的平衡が「方丈記」に似てる、という話であれば、原始仏教でも同じような話が出てくると思うんですよ。

 

釈迦入滅の200年後ぐらいの仏教の本、「ミリンダ王の問い」に、こんな話がでてきます。

 

ナーガセーナはミリンダ王に問う「大王よ、例えばある人が灯火を点じた場合、それは夜通し燃えるでしょうか」
ミリンダ王は「尊者よ、そうです、夜通し燃えるでしょう」と答える。
ナーガセーナはさらに問う「大王よ、それでは夜の初めの炎と夜更けの炎と夜の終わり頃の炎とはそれぞれ別のものでしょうか」
ミリンダ王は答える「尊者よ、そうではありません。同一の灯火に依存して炎は夜通し燃え続けるのです」
そこでナーガセーナはこう説く「大王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです」

 

ちょっとわかりにくいんですけど、ここでは自我についての比喩表現とされています。
自分、自我とはなにか、それは炎のような現象あるいは状態であってモノとしてではない、ということです。

 

炎というのはモノとして取り出すことはできません。炎は確かに存在するんですけど、それは常に変化しつづけている状態だ、ということです。自我も同じだ、という話なんですけど、この話、動的平衡と同じ気がするんですよ。

ぶらどらぶ

あの押井守が原作・脚本・総監督でシリーズアニメ!
しかも、ドタバタ・コメディ!?

ぶらどらぶ


VLADLOVE Official PV

 

amazonで2話まで見たけど…なんてゆーか…何十年か前のギャグアニメっぽい感じしかしねぇ。。面白いの?コレ…

 

かぞく

■鶴谷香央理「don't like this」

don’t like this (トーチコミックス)

don’t like this (トーチコミックス)

 

 大人女性向けマンガなんだけど釣り漫画。
釣り漫画なんだけども女性向け雰囲気マンガ。

 

漫画としてはかなりハイセンスだと思うが、読者を選ぶ…というか、コレとしてハッキリとした物語がないので、こーいう雰囲気的な漫画は好き嫌いが分かれるだろう。

俺は好きだけど。

 

ちなみに物語は大井競馬場前。しかも競馬場は全然関係ない。大井競馬場前が舞台のマンガははじめてだと思う。俺は一度行ったことあるが、ホントに競馬場と海ぐらいしかない駅だった記憶しかない。

 

■はるな檸檬「ダルちゃん」

ダルちゃん(1) (コミックス単行本)

ダルちゃん(1) (コミックス単行本)

 

 社会人として働く女性女性向けマンガ。
今、よくある"生きづらさ"、"自分らしさ"とは何かをテーマにした漫画。
会社勤めの女性なら共感できるであろう描写は多い。

 

主人公の女性は、社会にもまれながら、なんか自分の居場所ではないという違和感を抱いてて…このモヤモヤ~っとする心情を理解できるか、といえば、

 

一応、サラリーマン経験のある中年のおっさんの俺からすれば、わかるといえばわかるが、ウジウジしすぎ!他人のせいにするんじゃなくて自分がしっかりしろよ!
と思わざる得ないあたり、ま~…俺と性格あいませんよね…という漫画。

 

■ホリー亜紀「日本人嫁、英国に住んだらツッコまざるをえなかった」

 オーストラリアでスコットランド人にナンパされてできちゃった婚した女性のマンガ。
…いや、漫画の冒頭の紹介はそうとしか読めない。

 

基本、スコットランド在住の子育てマンガ。
水道代が定額とか、肥満率がすごい多いとか、牛乳を冷蔵庫に入れないとか、まあよくある異文化モノだけども、イギリスはともかくスコットランド異文化モノは読んだことなかった気がする。

 

イギリスとスコットランドの違いってほとんど知らなかったが、イギリスとスコットランドとの立ち位置が少しわかった気がする。
スコットランド人はイギリスからの独立心が強い一方、イギリス人はスコットランドにほとんど興味がないらしい。そもそもスコットランドの人口はイギリスの6分の1程度。日本で言えば北海道が独立しようと躍起になってても本州側があんまり興味ない、という感じらしい。

 

ただ以前に紹介した、じゃんぽーる西のフランス異文化マンガの方が哲学的側面からいえば面白いと思う。

 

■東條さち子「女子刑務所へ入ってました」

 タイトルどおり、女性刑務所に入ってた人の体験マンガ。
原案は"今は普通の主婦"という名前でクレジットされている。その刑務所に入ってた"今は普通の主婦"の文章を東條さち子が漫画化している。

 

刑務所モノは数あれど、正直、この原案の人含めて登場人物全員の反省の無さが胸に響く。非常に胸糞が悪いという読後感ではあるが、それはそれで興味深い。おそらく漫画化した東條さち子側はかなり気を使ってオブラートに包んだんじゃないかとは思うが、そのうえでこの酷さ。

 

自分とは違う価値観とは何かを少し考えさせられる一冊ではある。

ちなみに、女性刑務所のほぼ全員が薬物中毒者だそうである。

 

土田世紀「かぞく」

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油断してると、土田世紀に殴られる。

数ページで感情を揺さぶられる。
土田世紀の圧倒的才能は、短編でこそ味わい深い気がする。

 

かつて、いがらしみきおは「東北の発音は、とーほく、ではない。とーほぐ、だ」と指摘した。まさしく、土田世紀のマンガからはこのとーほぐ魂を感じる。寺山修司といい"とーほぐ"の血の怨念は強い。