動的平衡 その2 テセウスの船

テセウスの船、という話があります。
あ、ドラマとかマンガの話じゃなくてですね、その語源なんですけど、

 

ある船の古くなった部品を交換していくと、やがてすべての部品が入れ替わった船になります。

その時、その船は最初の船と同じ船だと言えるのか?という話です。

 

wikiにはこんな説明がされてます。

ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か

 

 

ひとつ前のブログ、福岡伸一の話に戻りますと、人間の細胞約60兆個は1年で大部分が入れ替わり、数年で全部が入れ替わります。物理的には同一である部品はひとつもないのですが、ひとりの人間としては同じである、としか言いようがありません。

 

ホスト側の宮崎哲也は、"記憶"こそが個人の人間たるものでは?と問題提議してみるんですが、ゲストの福岡伸一が指摘するように、記憶も実は非常にあいまいである、という矛盾があるワケです。

 

記憶の仕組みも、細胞レベル・分子レベルで見れば、神経細胞のネットワークであることがわかっています。
テセウスの船でいえば、そのネットワークを構成する神経細胞も次々入れ替わっています。そして、記憶=神経ネットワークという仕組みは使われなければやがて消滅します。つまり、何度も思い出すことで、強いネットワーク=忘れにくい記憶とされるのですが、その記憶自体がビデオカメラのように"本当の記憶"であるかどうかは関係がない、というあたりも問題を複雑にしています。

 

例えば、自分が何者であるか=自分の経験の記憶の積み重ね、とするならば、思い出せない、記憶がスリ替わっている、あるいは捏造であることはよくあります。それでも、昔の自分と現在の自分という記憶は同一であり続けるワケです(もし同一でなければ精神的な病気といえるでしょう)

 

テセウスの船を、別の角度から考えてみると、船と判断できるのはどこからでしょうか?
床板一枚で船とは言えません。では全部の材料をそろえて組み立て前に山積みにしてある"組み立てセット"は船といえるでしょうか?あるいは、船から何の部品を取り外せば船と言えなくなるでしょうか?


船大工みたいな専門家であるならばある程度意見の一致はあるとは思いますが、我々のように全くの素人がイメージするには、かなりボンヤリとした全体としての船、としかいいようがありません。

 

では、それを人間とした場合はどうなるのか?
どの部品がなければ人でなくなるのか?というのは専門家でも一致しません。
そこで、脳死・脳波が無くなれば人ではない=死んでる、と法的に決めたのは問題じゃないか?とyoutubeでは指摘してるわけです。

 

youtubeでも語られた人間機械論、つまり、骨や内臓を足していけば人間全体を説明できるという考え方がある一方で、人間は全体として部品とは異なる特性を持つ、という考え方があります。

 

"部分を全部足し算しても、全体の特性は説明できない"という考え方は東洋思想っぽいんですが、西洋思想でももちろんあります。

 

例えば、システム論、という分野があります。
(最近はめっきり聞かなくなりましたけど。。)
システム、という言葉はコンピュータあたりでよく耳にします。

 

例えば、パソコンなんかは個々の部品に分解できます。さらにソフトウェアもいくつかの構成要素に分解できます。それらを全てあわせて動く…インターネットでエロ動画を見ることができるのも、すべての部品で構成された機械と、機械同士連結するネットワークがすべて連動することで可能となります。この部品=要素を組み合わせた全体のことをシステムと呼びます。

 

しかし、システム論におけるシステムの意味は、全体を構成する要素を組み合わせることで、全体として構成要素とは異なる特性を持つ…システムには構成要素プラスアルファがある、ということです。

 

例えば、"吉沢さん"個人をシステムとします。
吉沢さんのすべての性質を紙にエンピツで書き出すとします。外見的特徴から生い立ち、性格なんかを全て箇条書きしたとしても、全部書き出すことが原理的にできない…つまり、吉沢さんを部分に分解してそれぞれ観察したとしても、決して描き切れない"吉沢さんらしさ"があるのではないか、という学問です。

 

あ…話が長くなってきたので、次回、システム論についてちょっと書いてみます。