アテナ

めずらしく?G監督と意気投合する。
ネットフリックスの「アテナ」、ホントにスゴイ。ここまで圧倒的な映像は今年一番。


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冒頭のカットから最後まで驚異的なカメラワークが続く。
説明的なセリフは一切なし。
ほぼ全編アクションだけで話を全て語る。

 

それだけ言えば「マッドマックス・怒りのデスロード」と同じ構造なんだけど、物語は超社会派。タイトルの「アテナ」はギリシャ神話とか一切関係なくて、団地の名前である。そのアテナ団地の住民が暴徒化して警察と対峙する、という内容である。社会派ノンフィクション風というか「ユナイテッド93」を思い出す感じ。

 

あと、G監督が見ろよぉと言うので見た。
ネットフリックス「裁判とメディア」

https://www.netflix.com/jp/title/80198329


計6回シリーズで2回目まで見た。
内容はタイトルどおり、新聞やテレビで大騒ぎした事件がその後の裁判にどう影響したかを論じている。

初回はなかなか興味深い構造だった。
素人さんをゲストに迎えて秘密を暴露するトーク番組で、近所付き合いのある男性2人がゲストだった。その一人が実はゲイで、お前を好きだと告白する。
番組内では、告白を受けた男性は戸惑いながらも終始笑顔で対応した感じであったが、その数日後、告白を受けた側の男性がゲイだと告白した側の男性を銃で撃ち殺した。

 

殺人犯となった男性は逮捕され、またそのトーク番組が無ければ平穏だったのに、と、番組自体を裁判で責任を争うこととなった。
そもそもそのトーク番組はかなり下品で低俗、司会者が出演者の感情を煽り立てるものであった。

 

そんな番組の司会者らが法廷に立ち、証言を行うのだが、その裁判もテレビで生中継された。しかもその裁判番組と被告のトーク番組は同じ系列のメディア会社だったのである。

 

お互いをエスカレートさせればさせるほど視聴率が上がる、という構造は道徳的にどーなん?と問う内容であった。なかなか興味深い。

 

2回目は80年代当時、異様に犯罪率の高かったニューヨーク地下鉄車内で、一人の白人男性が黒人4人にカラまれたその瞬間、白人が4人を拳銃で撃ったという事件。
犯罪のるつぼと化していたニューヨークの市民らにとって、その白人はひとりで犯罪に立ち向かうヒーローのようではないか!と喧伝される中、ついにその白人男性が現れるのだが…という話。

 

某Hからは何故か、BSマンガ夜話アストロ球団の回を見ろ、と言われる。


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うむ、俺も伊集院に同情する。

確かにあのケレン味しかないマンガはギャグと思われても仕方ない。ただ、その圧倒的な熱量こそがこのマンガの醍醐味である。その熱量を感じない連中が冷静に語ったところで何の面白みも無い。
荒唐無稽をその通り絵にかいたマンガである。もはや狂気と言って過言ではないこのマンガを、こりゃ馬鹿だ、ギャグだと切り捨てて知性派ぶる奴にこのマンガを語られたくねぇ!

 

最近、読んだ漫画で妙に面白かったのが
「魔王様は結婚したい」
いや、正直、マンガとしてはその…なんだけど、内容はタイトルから想像もつかないコンビニ経営マンガなのである。
この作者はコンビニ経営をしていた経験があるとのことで、ギャグマンガながら恐ろしくリアリティがある。いや、ギャグでしか語ることができないレベルでのコンビニ業界のブラックさ加減が味わい深いのである。

 

そもそもコンビニ業界について、マンガや雑誌など出版業界で語られることが無い。何故なら、コンビニ批判などしようものならコンビニに本を陳列してもらえなくなるからである。まさに百害あって一利なしの内容を何故かマンガで読むことができるのだ。

 

本部へのロイヤリティ問題などもあるが、その中でも最もタブーだとされるのが「コンビニ会計」である。

本文にも書いてあるが、おそらくこの内容自体が非常に珍しいし、マンガで説明しているのは本作だけであろう。

コーダ あいのうた

「竜とそばかすの姫」見る。


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この細田守監督の「時をかける少女」が名作なんで、この監督は見なきゃいけないんだけど…う…う~ん…。本作の物語、コレ、大丈夫なん?

 

物語の前半は主人公=そばかすの姫がネット上で有名になるまでで、
後半は「竜」が誰なのか、という感じなんだけど、
その肝心の「竜」の正体、ソレは…無いんじゃないでしょうか。。

 

G監督は劇場で見たって言ってるし、某Hは多分見ない気がするのでネタバレするけど、「竜」の正体は誰か?と客の期待を煽りに煽って、実はこれまで登場してない奴が突然出てくる…って、それは無くない?

 

なんか登場人物全員の役どころがシックリこないというか、後半に後ろで立ってるだけのおばさんたち必要?とか、意味ありげなお父さんは最後までほぼ放置?とか、彼氏っぽい奴の役どころコレだけ?とか、「竜」一家全員の言動が異様に芝居臭いのは何で?とか、50億人(!?)で竜以上に傷ついてる人いないの?とか文句言い始めたらキリがないので止めますハイ。

 

多分、色んな話を詰め込もうとした結果、それぞれのキャラクターの話を全員つなごうしてなんか無理が出てきたかな…って感じ。

 

だからと言って全然ダメってことはなくて、見た目はスゴイよね。。

 

基本は「美女と野獣」ってことなので、歌って踊るシーン…仮想空間上の異様に細かいCG描写なんかは一見の価値があるんじゃないでしょうか。
その仮想空間のデザインは細田守映画として一貫してて、バージョンアップ版を見ることができます、ハイ。

 

なんかスッゴイ消化不良な感じだったんで、同じように少女が歌う映画
「コーダ あいのうた」見る。


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アカデミー賞はじめ、世界の映画賞を総ナメにした理由はよくわかった。
コレは文句のつけようがない。

 

両親と兄が耳が聞こえない家庭で育てられた、自分だけが耳が聞こえる少女の物語。その少女は歌を歌いたいのだが、家族は歌というものを理解することすらできない…
と書くと、切ない話なんだけども、本作が凄いのはコメディ映画である、ということ。
なかなか障害者を中心にしたコメディ映画は無い。
「リンガー!替え玉選手権」ぐらいしか思いつかない。

 

話の展開はわかりやすくて予想通りなんだけど、その描写がスゴイ。

あえて文句をつけるなら、副題の「あいのうた」ってのが恥ずかしい。

道徳についてのクソ長い話 その5

道徳とは、自分の欲望をおさえて他人の欲望をかなえようとする社会ルールである。
そして、道徳とは幸福のための手段である。

 

…とゆーのが、先日までの俺の説明であった。
その道徳観による弱点については"その4"で説明したが、あとひとつ、弱点というか微妙な点が残る。

 

それは、道徳そのものが人生の目的になってしまう、ということ。
幸福のための手段であった道徳が、逆転して、道徳を守ることが幸せになってしまうことがある。

 

往々にして真面目な子供によくみられる。ちびまる子ちゃんに登場する眼鏡の委員長はルールに厳しい。それはルールに従うこと、つまりは社会道徳に従うことが委員長にとっての幸せだからである。

多少年齢が上になってくると、単なるチクリ魔みたいな奴がでてくるが、彼らは彼らなりの正義に基づいているといえよう。

 

まあ別段、それは必ずしも困ったことではない。社会維持という観点からすればむしろ推奨される。
ただし、常にルールを守ることが幸福を最大にするとは限らない。

…今具体例で思いついたのは、大震災のとき、差し入れの食い物の数が避難住民全員にいきわたらないために結局誰にも手渡さずに腐らせた、という話。
これは単純な損得で言えば損である。しかし道徳的なのか否かは意見がわかれるところだろう。

 

ルールを守っていること自体がその人の人生の目的であり幸福であるならば、果たして良いと言えるだろうか?

 

「相模原障害者施設殺傷事件」の植松聖によれば、事件の動機は、世の中を良くすることであったと述べている。
重度の障害者は生産性が無い。そして生きるために常に何人もの助けが必要で、使われる税金を考えると多くの国民が負担を強いられている。そのため、殺した方が世のためになるのだ、という理屈である。

 

彼は当初、身障者の介護を務めていた。そのとき、風呂でおぼれた身障者を助けたのだが、その障害者の親族らはその話を聞いてむしろ落胆したという。
そのような経緯を含め、表に出さずとも近親者ですら忌み嫌われている存在であると思いはじめる。

 

その思考は…障害者はいない方が良いという思考は、一般的に行われている出生前診断による中絶と何が違うのだろうか?

 

妊娠中に出生前診断により障害を持つことが判明すると、ほぼ100%近い確率で中絶が行われる。
法律上は違いはあろうが、道徳性についてはどこまでの違いがあるというのだろうか?

 

彼は犯行前に国会議員宛に手紙を書いている。その内容は、UFOを見たなど支離滅裂な部分を含むが、要するに国家にとって重度障害者はいない方が良い、というものである。
彼は、彼にとっての正義のために殺人をした。その正義とは、国家の幸福のためである。
国家のカネ回りを良くするために、自分の手で非生産人口を減らしたのだ。

 

現代社会は知的労働重視の資本主義社会である。
知性が低い人間を必要としない社会である。
障害者がなぜ障害者といわれるのかは、今の社会が彼らを必要としない社会だからとしかいえない。

 

少子高齢化が、社会保障が、年金が、国力が云々…と主張するならば、老人や障害者など非生産人口を減らせば減らすほど問題は解決するのは明らかのはずだ。
その思考は、植松聖と何が違うのだろうか?

 

いやいや、そもそもそーいった弱者を守るべく年金なんかの社会保障が先立っているのだという意見もあろう。ならば、現在の国民年金の受取額が生活保護の金額を大きく下回っているのは、単に老人を自死に追いやっているだけではないのか?

 

いや、植松はそこまで考えてなかったでしょ?と言う人もあるだろうが、
つい最近も障害者施設での障害者への虐待事件が明るみになっている背景は、植松と何が違うのか?

 

カント的道徳性からいえば、植松は裁けないはずだ。
なぜなら、世の中を良くしようとする意志こそが重要で、その行為は問題にしていないから。

ミル的道徳性からいっても、植松を裁くのはむつかしいだろう。

 

アリストテレス的観点からは裁けるだろう。
「中庸」という思考から、正義のための殺人は逸脱しているだろうからだ。

"スーパー!"という映画をご存知だろうか。
自らスーパーヒーローに扮して悪を退治するという物語なのだが、その主人公=自称スーパーヒーローは、行列に横入りした奴を、巨大なレンチで殴りつけるのである。
明らかに過剰だが、これは正義なのかといえば、本人にとって正義なのだ。

 

んじゃお前は植松を肯定してるのか?
といわれれば、そうではない。単純な批判はむしろアブナイと言いたいのだ。

 

この事件で唯一、おおやけの場で的を得た批判はド変態小説家・岩井志麻子ぐらいだ。
彼女は「我々はいずれ老人になり無力になることを考えろ」と言った。
誰しもがいずれは老衰を迎える。その時、自死すべきか?
老人は皆殺しにすべきなのか?と問うた。

 

ちなみに成田祐輔は、老人は集団自決しろ、若者の未来のために老人は死ねと説いているのだが、文脈からしても"若者"の中に重度障害者は入っていないとしか思えない。
本質的に植松聖と成田祐輔は同じ道徳観としか思えないのだ。

インザウッズ

■「スパイダーマン ノーウェイホーム」見る。


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…うん、これまでのスパイダーマン・シリーズの各主役、各敵役が勢ぞろいのお祭り映画ですねぇ。。これはシリーズを見続けてた中年向け映画としか思えない。

まあ、良くも悪くも最後まで予想通りでいいんじゃないでしょうか。お祭り映画に物語性を期待するのもアレだし。

 

ただ、なんだかんだ言って時間を操作できるドクター・ストレンジが一人いれば全部解決するんじゃね?…ってみんな疑問に思うんじゃね問題がでてくるよね。。

 

あ、その次の作品の「マルチバース・オブ・マッドネス」はドクター・ストレンジとほぼ同じレベルの能力者ワンダが出てくるのか…もう時間と空間を自由自在に操作できるという時点で物語がむずかしくてしょーがない気がする。見てないけど。

 

■「オッドタクシー インザウッズ」見る。


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G監督が、何だよコレ!とお怒りだった理由は分かった。
体感で97%がテレビ版の再編集。
残り3%は、最高だったテレビ版のあのラストの余韻をクソミソに台無しにする話をくっつけるという暴挙。
うん、コレを劇場で金払って見たら俺も怒るなぁ。

 

唯一といっていいのは、タクシーの中にどうやってスマホを忍ばせたのか?問題を説明してるぐらいかな。。かなり無理がある設定だったことはわかった。

 

残りの俺の最大の謎、主人公が山本に首を絞められてるときに白川さんが助けに来る場面、どーして白川さんがその場にいたの?という謎は謎のまま…。

道徳についてのクソ長い話 その4

先日までの説明で、道徳は社会ルールを守ることだとした。
ただ、そーだとしたら、それはそれで困る点が出てくる。

 

ひとつは先日説明した通り、理屈でいえば自分が道徳的にふるまうことは他人の悪をしやすくするということになるということ。

さらにその理屈をすすめれば、メンバー全員がキッチリと社会ルールに従っている場合は、一体誰のために社会ルールを守っているのかわからなくなる。AさんはBさんのために、BさんはCさんのために…と、延々とループするからだ。

ここで、社会ルールを守らないXさんが登場すると、Xさんだけが大きな利益を得ることになる。

 

また別の点で言えば、地域間の価値相対主義…それぞれの社会でのルールはその社会で正しい、善なので、地域外の者は批判できない。
イスラム圏では今でも同性愛者が死刑になる国があるが、それはその国にとっては善である。他国が違うと指摘するのはお門違いとなる。その境界はどこか?という問題もでてくる。

 

さらに根本的な問題は、自分で善悪の判断ができない

 

自分を取り巻く社会ルールは自分がつくりあげたものではない。法律で明文化されたものから暗黙知による生活習慣などについて善悪の判断ができなくなる。もし、疑問を感じた場合は、それが社会ルール化されるまでは悪としなければならない。

 

善悪の判断は社会が決めるのであって自分がしてはいけない。もし、自分が善だと思っていた行為を支持するものが少数であれば、それは間違っていた、それは悪だと判断することが正しいからである。

 

子供は善悪の判断がつかない。なぜなら社会ルールを知らないからである。そこで大人は子供に善悪、社会ルールを教える。それが何故善なのか?なぜその社会ルールを守らなければならないのか?という疑問は差し当たって問題にならない。
単に知らないから教えているだけであり、この場合において無知は罪になりえる。
なぜ人のモノを盗んではいけないのか?と子供が質問したら、結局はそういうルールだからとしか言えない。
所有権があって…とか、自分のモノを盗まれたら悲しいから…とかいう理由は、すべて「所有権がある社会だから」「自分のものが盗まれたら悲しい社会だから」である。
もし所有権の無い社会であれば、そもそも盗むということ自体が存在しないのだ。

 

そもそも、だ。

そもそも道徳は何のためにあるのか?といえば、幸福のためである。その幸福になるのは誰か?といえば、私自身を含む同じ社会のメンバー全員である。

 

ここで最大の難問がある。

 

道徳は理解したうえで、何故自分は道徳に従わなければならないのか?という疑問である。

 

私自身は、他人の幸福を知りえない。
なぜなら私は他人にはならない、なれないからである。同じく、他人も私にはならない。しかしながら、道徳は他人の幸福のために私の自由を制限する。私が不幸になることで他人が幸福になることは善である。

それって矛盾しないか?

幸福を追求することが善であれば、あえて社会ルール=道徳に従わないことがあるのではないか?

 

この文章の冒頭で説明したAさんはBさんのために、BさんはCさんのために道徳的にふるまうが、Xさんが道徳的にふるまわないことで利益を得るなら、そのXさんは幸せということにならないか?

 

「附属池田小事件」の宅間守は、驚異的に反社会的行為であった。
彼は一般的な知識レベルとしての道徳も法律も知っていたことは間違いない。
そのうえで、彼は自身の幸福のために弱者を殺害したとしか思えない。

 

そのような幸福、自由は、実は本当の自由ではないとカント倫理学あたりは否定するだろう。勝手気ままな殺人など一般化・普遍化できないからだ。

 

しかし、もし、本当に宅間守がそれを望んでいたのならばそれは幸福といえないのか?
殺人を犯して自分も死刑になるという破滅的願望は、決して誰しも持つものではないが、まさしく宅間守自身にとっての道徳的行為であったと、内在的理由までを否定できないのではないか?

 

別段、俺は宅間守をかばう気は一切ない。死刑で当然であるし、もし死刑以上の刑罰があればそれを俺は望んだだろう。

 

しかし、宅間守のしたことは法律に違反したので悪だ、と主張する人々と俺とは多分、話があわない。

 

宅間守が「道徳的行為は理解したうえで、自分の意志で道徳に従わなかった」と主張したなら、道徳=社会ルールだよ説では善悪を答えられないように思えるからだ。

 

道徳=社会ルールだよ説、つまり社会契約説で善悪を判断しようとすれば、自分という特別なもの…主体とか主観でもいいけど…の特性を一切考慮できない。

 

なぜ自分は道徳を守らなければならないのか?道徳を守ることが本当に幸福なのか?という問いを考えたとき、道徳=社会ルールだよ説では善悪を説明できなくなるのである。

道徳についてのクソ長い話 その3

椅子の上に"偶然にも"乾電池が立てて置いてあって、座った瞬間に"偶然にも"ケツの穴にすっぽりとハマって抜けなくなったのだと訴える患者は全世界的にみられる、というレポートを読む。

うむ、世界はひとつだな!とホッコリしたのは俺だけだろうか。

 

…ケツの中の乾電池はともかく、道徳の話である。

 

先日、道徳とは社会ルールだと言った。
んじゃ、社会ルールってどうやって決まるのか?といえば、現代では文化を土台にした話し合いで決まる。

 

何を話し合うのか?といえば、メンバー間でどこまで自由にふるまえるのか?である。具体的には何をしたら駄目なのかを決める。殺人は駄目だよとか。

 

言い換えれば、皆で話し合った「他人に迷惑をかけない範囲の自由」=「社会ルール」であり、その社会ルールを守ろうとするのが道徳である。

 

その社会ルールを守ろうとすればするほど、つまりは道徳的にふるまおうとすればするほど、自分の自由を制限し他人の自由を認める。
なので、道徳とは自分の欲望を許さずに他人の欲望を許そうとする。

 

そこで奇妙な逆転がある。

 

自由とは欲望のままに生きることであり、それは悪である。
道徳とは、自分の悪を認めないことで他人の悪を実現させようとするワケだ。

 

…以上が、ホッブズによる社会契約説を俺の解釈を交えて説明したものである。

 

今のところ、俺はそれ以外の道徳の説明がしっくりこない。
道徳ってのは主観的なものだとするニーチェなんかの説がイマイチ理解できない。

 

まずは主観的な快・不快は欲望とどう違うのかが俺にはわからない。
それに道徳的だとゆーのは単に道徳的だと自分が思ってるだけじゃね?という(独我論)レベルからどーやって抜け出しているのか今のところ俺は理解できてない。

 

それを踏まえて、俺が気になる殺人犯…「附属池田小事件」の宅間守、「相模原障害者施設殺傷事件」の植松聖、今回の安倍晋三襲撃事件の山上徹也の道徳性について考えてみたい。