哲学の密かな闘い

色が3つ、赤、青、灰色があるとする。
このとき、
Aさんは生まれつき 青 灰色と見えるとする。
一方、
Bさんは生まれつき  灰色と見えるとする。

このとき、
AさんとBさんは、お互い違う色を見ているとお互いが理解できるか?

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これが問題だとわかる人…第三者的立場の人は、
そりゃAとBとじゃ赤と青が逆になってるというのがはじめから理解できている。

しかし、Bさん自身、生まれつき赤色だとしか見えないし、青色である。
このとき、
AさんとBさんの色の会話で不都合があるだろうか?
おそらく、全く不都合がないはずだ。

 

そもそもBさんが本当にどう見えているのかはAさんは知りようがない。
そして赤と青とは別の色である。

 

Aさんが赤っぽい夕焼けですね、と言葉で説明すれば
Bさんは、ああ、そうですね、赤っぽいですよねと答える。
なぜならBさんが生まれつき見ている夕焼けの色はこの色だったからである。

 

いやいや、色弱ってあるでしょ?という人もいるだろう。
実際、俺の友人は色弱で、薄い赤色がグレーと区別がつかない時があるといっていた。
つまり
  灰色
と見える。

この場合、赤と灰色が違う色か否かで確認できる。

 

しかし、色が完全に入れ替わっていたとしたら、どうやってお互いが違う色だよとわかるだろうか?
これは3色だろうが100万色でも問題は変わらない。

 

つまり、根本的にAさんとBさんは違う色を見ているけどもお互いに違っていることは知りえない。

 

これをクリオア(問題)という。
これが俺がはじめに興味を持った哲学的問題だった。

…これって一体何の意味があるの?という哲学的問題は、たまに考えると楽しい。

 

新版 哲学の密かな闘い (岩波現代文庫)

新版 哲学の密かな闘い (岩波現代文庫)

  • 作者:永井 均
  • 発売日: 2018/03/17
  • メディア: 文庫
 

 永井均は、ずっと私とは何か…自分、自意識、自我…って一体なんなのかという話をしている人である。

自我というのは面白い。
自分は自分であるということは誰にでもわかる。
しかし、他人も自分のように果たして自意識を持っているのか?といえば、あくまでも推測であって絶対に確認できない。

 

例えば、G監督が俺と飯食ってる最中に、突然、俺の自意識が消えたとする。
しかし、目の前にいる俺の態度は何一つ変わらずに、いつも通りの受け答えをしてる。
俺という肉体はあるが、俺の自意識がないものの、言動は全く変わらない。

 

この時、G監督は実は俺がいないことに気が付くだろうか?といえば、それは絶対にわからない。
一方で、俺にとっては自分は死んだと同じで、世界が無くなっている。

 

このとき、俺と俺の自意識がいなくなった世界と何が違うのか?といえば、
俺の自意識としては世界の終焉を意味するが、俺の自意識以外の世界は全く変わらない。

 

※自意識がないのに自分と同じ言動をする肉体は、自分以外に確認しようがない。
このような肉体を哲学的ゾンビという。
で、この自意識がある自分を、永井均は<私>と表記する。

 

哲学には独我論という考え方がある。
それは、他人に自我があるかどうかは絶対にわからない。わかっているのは自分に自意識があるということだけである。

 

もし、世界には自分の自意識しかない、<私>しかいないのであれば、他人の自意識はないはずだ。あると仮定するのはあくまでも<私>が想像した他人の自意識にしかならない。

 

永井均が面白いのは、そもそもこの<私>をめぐる議論が、他人に理解できるのが奇妙ではないか?と言い出すあたりである。

デカルトの有名な"われ思うゆえにわれあり"という有名な独我論のセリフは、誰でも共有できるのがそもそも変だ。それは<私>しか理解しえないはずなのに!という問いである。

 

G監督の自我<G>、このブログを書いている俺の自我<俺>は、それぞれ違うというレベルではない。
そもそも<俺>しか存在しえない。だから、<G>の存在は<俺>が勝手に想像しているだけのはずである。
しかし、このことは同時に
<G>からすれば<俺>は<G>の想像の産物にしかならない。
…だが、
この議論が<俺>と<G>と両方の立場で成り立って議論成立してしまうこと自体が変である。

 

結論から言えば、これは言語で表現できない範疇を含むので、説明すること自体が不可能である。
私、とか、自意識、という言葉自体に<G>と<俺>とを区別させることができないからである。

 

…とまあ、わかったようなわからないような、実生活に何の役にも立たない話が妙に面白い。

 

俺は、たまに永井均の話に、それはそーだな!と膝を打つことがある。

 

例えば、この世界はもしかしたら自分だけが本物であとは全部、誰かがつくったニセモノの世界ではないか?まるで自分が映画の主役で、他は全員エキストラの世界の可能性だってあるんじゃないか?という疑問
それは映画「トゥルーマンショー」の話。


【映画紹介】もしも自分の人生が、”演出された作りもの”だったら…?「トゥルーマン・ショー」(ネタバレ無し)

実際に超巨大なセットの生活する主人公が、ある日、この世界は自分を撮影してて、他の人は自分の生活を画面で見てることに気が付く、という物語。

 

この問題について、永井均

そう考えたとして、この世界はよく出来過ぎている。

とする。

 

他にも映画「マトリックス」では、実は自分は培養液の中に浮かんでて夢を見てるだけ、という世界が描かれる。

 

そこに永井均は、これはカントの超越論的観念論だよ、として

この世界は夢1である。そして、それは絶対に確認できないものとする。
このとき、夢2を見ている自分というのは、
夢1を見てる自分が実は夢2を見てるだけにすぎない=夢1の中の夢2
夢1の中の夢2が、もし、その両方の夢が全く見わけがつかないとしたら、はじめの夢1を消すことができる。

という説明にナルホドと膝を打ったのだが、何か意味があるかの言われたら全くない。

 

俺としては、永井均ウィトゲンシュタインの話を持ち出してきて<私>は語りえない、と説明するが、俺としてはなんか仏教的な話のような気もする。

 

原始仏教には「ミリンダ王の問い」という話がある。
ここでは輪廻転生と無我なんかについて語られるが、詳細は置いといて、
ここでナーガセーナは、自我というものは炎のようなものだ、と説明する。
つまり、自我というのは現象であって具体的なモノでない。

 

そこで、永井均の<私>というのも、炎や水の流れのように、変動している、変動そのものを言葉で説明しようとすると、形を言葉で説明したり写真をとったりしてもそれは変動する現象自体はとらえられないのではないか?と思うのである。