人生に意味があるか論 その4

たしか永井均の本だったと思う。
性格が明るい人=根明(ネアカ)は、それだけで人生の目的を達成している。なぜなら、明るく楽しく生きているから。
一方で根暗(ネクラ)は、どうやったら明るく楽しく生きていけるのかを考えなくてはならない。

 

ネアカ・ネクラは性格なのでどうしようもない。
確かに楽観的な人は将来に不安がない。そもそも理屈から考えても将来はわからないんだから考えてもしょうがない、悩むだけ損だ、という頭のいい人はいる。
しかし、俺のようにネクラで悲観的で無能な人間はどうしたらいいのか。

 

中島らもは、クスリで楽しくラリパッパでも理屈は同じじゃないかと主張した。
それはそれで一理あると思う。
しかし、そもそも違法薬物は入手困難だし、高額なので入手し続けるのも無理がある。
結局はピエール滝かキヨハラになってしまうのは容易に想像がつく。

刑事罰でもOKというほどの覚悟はちょっとできない。

 

もうちょっと現実的にネクラな人間はどうしたらいいのかと考えた結果、まずは環境をととのえるのが良い気がする。

まずはカタチから入って、気分をととのえるワケである。
大友克洋「AKIRA」でも、儀式は必要ではないが精神を高めるのには役立つ、と言ってたアレである。

 

そもそも、楽しいと感じる環境とは何か?
食い物とか、住環境とか、睡眠とかもあるが、とりあえずは置いときます。

アドラー心理学なんかだと、人間の楽しい云々はほぼ人間関係で決まる、というのはなんか納得する。
転職の理由でも、多くは職場の人間関係が理由といわれる。

 

んじゃ、その人間関係って?というと、
このブログの"人生に意味があるか論"の冒頭にもどって、人間関係ってそもそも何人から?あたりからの話になる。

 

…そーいうわけで、人類学的に3~7人程度の気の合う仲間でワイワイやる、というのが明るく楽しく生きる環境づくりの第一歩であろうと考えるのである。
その少数の仲間は家族である必要もないし仕事仲間である必要もないが、もちろん家族でも同僚でもよい。

 

ところで、マスロー(マズロー?)の5段階欲求説というのがある。

以下はネットで拾った図。

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食欲とかが満たされて・安全であることが保証されて・仲間に入って、尊敬されて…という欲求が段階的に存在するという説だが、この説、ホントかどうかは別に実証されたわけではない。あくまでも仮説である。

 

俺が思うに、この社会欲求・承認欲求は相反するものだ。

まずはメンバーとして認められたい、その後はリーダーとして認められたいと解釈できるが、支配する側と支配される側と考えると、支配されたい=社会欲求、支配したい=承認欲求となる。

 

俺が思うに、人間、支配されるのも気持ちイイと感じるのではないか。
人間関係の何が疲れて何が楽しいかといえば、自分が相手に合わせて変化することだろう。
その変化が相手の言いなりで従属していると思えば疲れるが、相手を喜ばそうと自分を変えるのは自分も楽しい。

 

マスロー的解釈では自分の心理は変化しない。段階を経て欲求は変化するが、社会欲求と承認欲求に限らず、欲求は混然一体としているように思う。

 

数人のグループでコミュニケーションをしているうちに、自分の心境が変化していくこと自体が楽しい。
これがネクラが楽しく生きるために一つの方法ではなかろうか。