素直な戦士たち

某Hの宿題本、城山三郎「素直な戦士たち」読む。

 

幼児教育から大学受験まで、虐待レベルで教育にのめりこむ親子の姿を描いた小説。
昭和53年の本とゆーので、ひと昔の本ではあるが、まあ今も似たり寄ったりの感はある。

 

この本、最後はどーなるかと思ったら、意外とアレでした。
多分、今でこそ教育虐待という単語があるほどに異様な教育の結果、凄惨な事件が何件もあったからこそ、どれだけキツイ話になるかと思ってたら、意外とまあアレでした。

 

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本作とは関係ないけど、教育の話になると、いつも思い出す。
長年付き合いのある職人さんで、自分の娘が法政大学に受かったという。
それは凄い。こんな田舎でよく勉強できましたね!と俺は素直に驚いて素直に褒めた。
しかし、その職人さんは渋い顔をして、大学なんてカネがかかるだけだという。
どうやら謙遜ではなくて本気で嫌がっているようなのだ。

 

聞くと、その職人さん自身は高卒で、大学なんて無意味だという。
娘さんが希望しているので仕方なく行かせてやる、という感じなのだ。

 

確かに職人の世界ではそうだろうとは思う。
さらに俺の地方、関西より西側、それも田舎ともなると関東の大学はほとんど知られてない。
一橋なんて聞いたことないといわれるし、日大は日体大と同じ。東京工業大学は工業高校に毛が生えた程度だと本気で思っている人はマジで多い。
法政もなにそれ?聞いたことないレベルだったのだろう。

 

学歴は意味があるのか?
皮肉ではあるが、学歴の必要性を知っているのは学歴のあるものに多い。

 

大卒で大手企業なんかに就職した者は、周囲も大卒であるし、取引先なんかもおおよ同じレベルである。
大卒側で忘れがちなのは、大卒は同じ世代で人口の約50%であるという事実である。
半分は高卒以下であることを忘れがち…東京の中心部で行きかうようなサラリーマンのほとんどは忘れているか、知っていても気にしたことも無い事実だろう。

 

 

俺の住んでるのが田舎、ということも含めてか、
まれに教育者…というか教育でメシ食ってる先生とか、教育学部なんかを出た人と教育に関して話をすることがあるが、必ずと言って齟齬を感じる。
そもそも、教育とは本質的に差別的であり人権に反する。
そんな性質を、真面目な先生方は理解できてない様子なのだ。

 

時折、"リベラル・アーツ"という単語を目にする。
何か自由な学問?的な意味で使われるが、本来は、リベラル=自由人=奴隷を使役する人間のための学問という意味である。
本来、学問・教育とはいわば貴族階級のための教養である、というのが教育の本質のひとつである。
ただし、それは産業革命以前の話である。

 

産業革命以前の戦争は今日では牧歌的?ともいえる軍人同士の衝突レベルであった。
しかし産業革命以後、国民を挙げての総力戦となった。兵器や食糧生産は、国民全員による生産力と直結してしまった。
兵器の生産は工業力の向上が不可欠であり、そのための人員はある程度の読み書きができる必要がある。
要するに富国強兵が近代以降に求められる教育である。

 

近代より前、職業は生まれつき決まっていた。
農家の家庭に生まれれば農家、大工の家に生まれれば大工であった。
しかし、近代教育はそれを許さない。
一旦、国家権力が強制的に家庭から子供を引き離し、国家のための生産性向上のために読み書きを教えるのだ。

 

教育の必要性については、ここら辺が皆、ごちゃ混ぜになっている。
もっと程度が低いと、教育は義務だからという。何故、国家の義務なのか考えたことが無い人がほとんどだ。
それに教育が道徳的に正しいから教育が必要だと思っている人は多い。

 

教育とは何か。
俺としては「カタにはめる」のが教育である、と思っている。

社会の一員として生きていくには、社会のルールを知る必要がある。
日本なら日本、アメリカならアメリカ、ブラジルならブラジルの社会ルールがある。
言語なり道徳習慣なり、それをまずは習得するのが教育である。
言語なら言語のルールがある。
そのカタを知ることで、はじめて一人前の人間として認められる。
そのカタが正しいか間違っているかは社会状況による。

なんのカタも知らない、なんのルールも知らない人間は社会で生きていけない。
その意味で教育は必要である。
教育が"必要悪"だ、とハッキリ述べているのは呉智英だが、その通りだと思う。

 

昨今、国籍や人種、性別なんかで差別してはいけないという風潮は、滑稽なほど強調されるようになった。
しかし、唯一といって差別しても許されるのは学歴差別である。
人種や国、性別なんかは過剰とも思える反応があるのに対して、学歴差別は許容されている。

 

科挙は千年以上、王朝が変わっても制度は残り続けた。
何故これほどまで長く続いたのか。それは革命を織り込んだ制度だったからである。
生まれつきの身分や貧富の差に関係なく、試験さえ受かれば高い身分が保証されたからだ。

 

最近では教育経済学という学問があるらしいが、実に資本主義らしくて感心する。
本当に自由に生きていきたい、と思うなら、自分で言語をつくればよい。
そうでなければ、すでにある言語を、社会ルールをおぼえるしかない。
そのうえで、複雑なルールにどう従うか、あるいはルールをどう変更するか考えるしかない。

 

近所の小学校にある謎の教育的看板。なんか意味があるのか?