<敵>と呼ばれても

初代スター・トレックのカトー役で有名になった日系2世のアメリカ人、ジョージ・タケイ
その彼の少年時代を描いたマンガ。

<敵>と呼ばれても

〈敵〉と呼ばれても

〈敵〉と呼ばれても

 

 日本のいわゆるマンガというよりは、いわゆるアメリカン・コミックであり、帯にはグラフィック・ノベルと書いてある。

 

第二次大戦時、日本による真珠湾攻撃にって、アメリカはヒステリー状態になる。アメリカ本土で暮らしていた日系人・日系移民たちは法的根拠のないままに、唐突に財産を没収され、強制収容所に収容された。

 

この歴史はあまり語られない。
当時、日本と同じくアメリカの敵国であったドイツ移民やイタリア移民は強制収容所送りとはならなかった。つまりは、真珠湾攻撃をきっかけとした日本人蔑視であり人種差別である。

 

語り手であるジョージ・タケイは、両親とも日系であったため一家で収容所送りになる。
当時のタケイはまだ幼く、強制収容所へ送られる列車内もまるで遠足気分だったという。

本書は、真珠湾攻撃から日米開戦、そして強制収容所の暮らしが描かれる。
アメリカ社会の人種差別とは何かを考えさせられるマンガである。

 

そして、アメリカ育ちで英語しか知らない日系人含め、祖国がアメリカか日本かを選択しなければならない場面がやってくる。
ただし、いずれの選択も極めて苦渋の決断であった。

 

ちなみに、アメリカ軍442部隊の話も描かれる。
この部隊は、祖国がアメリカであると宣言してアメリカ軍に入隊し、日系人であるが故に国家への忠誠心を試され激戦地に送られ、また、自身たちも高い忠誠心を見せようとして多くの死傷者をだした実在の部隊である。

 

戦後しばらくして、日系強制収容所ついて1992年にはブッシュ大統領より国家としての謝罪と賠償が行われたが、収容された家族らの複雑な心境は察して余りある。

 

「<敵>と呼ばれても」の感動的シーンは、理不尽な強制収容所暮らしを続けたジョージ・タケイの父親が本当に信じていたのはアメリカの民主主義であった、という場面であろう。

 

ふと、某Hから昔送ってもらった本を思い出した。
深谷敏雄「日本国最後の帰還兵  深谷義治とその家族」

日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族

日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族

  • 作者:深谷 敏雄
  • 発売日: 2014/12/15
  • メディア: 単行本
 

 深谷義治は日本のスパイとして中国に渡るものの逮捕され、20年以上監獄で拷問を受け続けた不屈の日本人のノンフィクションである。

 

文字通り生死をさまよう拷問を受け続ける中、たった一言、自分はスパイだと言えば釈放され、すでに戦争が終わっていた日本に返されて日本国内で逮捕されることもないことを知っていたはずである。そして、自分がスパイだと供述すれば、日本と中国の国家間交渉でどれほど日本にマイナスの材料を与えるかも理解していたはずである。

 

果たして深谷義治の信じるモノは何だったのか、本書では明確には書いてない。おそらく最後まで信じていたのは自身の信念…自分は生きる。しかし、たとえ国家が自分を裏切っても自分は国家を裏切らない…という信念ではないだろうか。
日本の国を不利にする材料にはならず、かといって自ら命を絶つこともなく、自らの信念だけで生きて家族の元に戻ったのである。

 

俺が感動するのは「<敵>と呼ばれても」より「日本兵最後の帰還兵」が圧倒的である。無論、「<敵>と呼ばれても」もいいマンガであるのは確かだけども。

 

ちなみに、第2次大戦においてアメリカによる日本人差別の話は、日系収容所以外にもある。
原爆投下は黄色人種の日本人だったからというのは、まあ有名な説だろう。アメリカ兵が日本兵の頭蓋骨を手土産によく持って帰ってきたという話もある。しかし、ネットが普及する以前に史上最大規模の通信傍受がアメリカによって日本で行われたことはあまり知られていない。

 

敗戦後、日本を統治したGHQにより、日本国内の手紙や通信はほぼ全てのレベルで傍受されたのである。

その様子を描きつつも、さらに現代感覚では奇妙と思える、全国の日本人からGHQトップのマッカーサーへの大量の手紙を記した本がある。


拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙

 「<敵>と呼ばれても」は、母国であるはずのアメリカに裏切られた日系人の記録であるが、「拝啓マッカーサー元帥様」は、天皇からマッカーサー統治となった日本人の心情を描き出している。

 

50万通ともいわれるマッカーサー宛の手紙の内容の多くは、マッカーサーを統治者として褒め称えるような、いわばファンレターであった。

 

正直、手紙を出す気持ちは、俺はよくわからない。
ただし"統治者は自ら選ぶものではなく運命によって決められ、それを唯々諾々として受け入れるのが我々民衆であるべき"という気持ちは、わからないでもない。