中国思想史 第3章

 

第3章「原始儒家に対立せし諸家の思想」 まで読む。

 

■「墨家
墨子による思想。
全知全能の神がいて、人の行動の良し悪しで賞罰を与える。その神以下、人間は全て平等であるとする。ちなみに鬼もいるよ。
この平等思想は徹底しており、家族と赤の他人の間でも差は無い、とするのが儒家思想と最も異なる。

 

人は個々人の正義よりも社会正義にもとづいて代表者を選び、その代表者らがさらにエリアの大きな代表者を選ぶ…といういわば社会契約説に近い。

 

この全知全能の神と社会契約による統治ってキリスト教っぽくね?と思ったら、

むしろヨーロッパ中世の教会政治の思想に傾く可能性が多い。

と書いてある。

 

あと、音楽は不要。豪華なお墓とか葬儀も必要ない。

 

森秀樹のマンガに「墨攻」ってのがあったが、墨子の思想は基本的に不争、争いはいけないが、治安維持において悪人を打つことは仕方ないというのがある。墨守という言葉は、墨子が防御戦術に長けていることからきたという説もある…らしい。

 

■「農家」
まあ字のごとく、農業大事だよね的思想。
ただし直接的な書物は存在しない。

 

なお、墨子にせよ儒家にせよ他の思想派にせよ、おおよそ農業というか第一次産業絶対主義である。というよりも、工業、特にサービス業を憎んでいるフシがある。

 

これは2千年前に商業経済の理解が無かったというのもあるが、そもそも戦争まみれで食うや食わずの状態が続いた時代のため、食い物を生産する奴が一番偉い、というのもわかる。

 

■「道家
道家老子荘子列子による。
ただし、老子の実在はかなり怪しい…というよりも、著者はいなかったとしているようだ。

道家の思想は、自然主義である。ただ、自然がサイコー!というわけでなく、無欲と不争が肝心とする。
無から有が生まれる。人間は自然から生まれ出て、無に帰る。人間の欲が争いの原因となりえる。
「知足者富…足るを知る者は富む」というのは道家思想から。
人間がつくった道徳など自然状態ではないクソだろ!というあたりが儒家思想と異なる。

 

荘子の思想で極端なのは不材=社会の役に立たない人であること、を目指せという。

宮澤賢治雨ニモマケズ」の詩にデクノボーと呼ばれたいと書いてあるが、その詩の人はものすごく社会の役に立ってる。荘子はそんな美談ではなく、例えば身体障碍者や刑罰で足を切られた人なんかサイコーだと書いてある。そういう点を「非社会的、独善的」であると著者は指摘する。

 

徹底して社会から逃避し、無欲を貫き通し、死ぬことでやっと楽になる…というロックで尖った思想である。

 

■「法家」
いろいろいるが、韓非子が最も有名。

法による統治、つまり法治国家であり、国家主義思想である。ここではじめて国という概念がでてくる。儒家による道徳だと国という大きな単位は扱えないとし、法というルールで縛ることで国家として成り立つとする。

 

国家は個人よりも優先されると説く。さらにいえば、個人なり小集団が力を持つと内乱が起こるので、個人は弱小化し、国家権力を強大にすべしと説く。

 

そして、同じく法家ではじめて軍事をOKとする。儒家とか墨家道家なんかは軍事を認めないが、法家は国家のために軍事力は必要であるとする。富国強兵である。

 

…これって、今の国家観じゃね?と思いつつ読んでたら、その通りに書いてあった。

この法家の説は秦の始皇帝が天下を一統した時、その指導精神となったものであり、漢以後においては儒家の思想をもって政治の表面を粉飾したため、政治の態様が甚だ複雑に見えるが、実際政治を指導したものは、後世においてもこの法家の思想である。

 

先日も「儒家」のところで書いたが、儒家は結局最後まで国家を形成する思想たりえなかった、というのがホントのところであるとハッキリわかった。