大人でないと面白さがわからないマンガは、ある。
いましろたかし「釣れんボーイ」
学生風情にこの驚異的な面白さがわかってたまるか…!と叫びだしそうになる。
(続編の「新釣れんボーイ」はイマイチだけどさ・・)
先日読んだ、まんしゅうきつこ「湯遊ワンダーランド」
俺ぁ震えるほど面白いのだが、コレが面白いと思える条件…というか読者のストライクゾーンが狭すぎる気もする。
G監督も某Hにとっても微妙な気がするんだよね…俺だけ…俺だけが面白いんだ!
…ま、「湯遊ワンダーランド」はともかく、
ここまで人類=ホモサピエンスが発展した原因は脳が大きいからだ、という説がある。
しかし、ネアンデルタール人の方がホモサピエンスよりも体重あたりの脳は大きい。
一昔前はネアンデルタール人はホモサピエンスの暴力で滅んだという弱肉強食説が有力だったが、お互いが争ったという証拠はまれにしかないこと、ホモサピエンスのDNAにはネアンデルタール人が混ざっていること、あたりからちょっと違うんじゃない?という感じである。
最近、ホモサピエンスの能力として"共感できる"説が出てきた。
現在の文明、産業なんかは数百、数万人単位の共同作業で成り立っているが、コレがホモサピエンス特有じゃないか説である。
しかし、それも単に仮設である。
その共感説が正しいとしたら、なんでホモサピエンス出現当初からの文明らしいものが無いの?という疑問が残るし、そもそもネアンデルタール人他の原人たちにその能力がなかったという証拠もない。
俺としては今西錦司、今西進化論がなんとなく好きなんだけど、正しいかどうかは知らん。
そのホモサピエンス特有じゃないかという"共感"を、概念から具象化させたのは宗教であろう。
おそらく一神教よりもアニミズム、多神教が先ではないかとは言われるが、その一神教、古代エジプトからあったらしい。
古代エジプトは当初、多神教であったが、王朝の最後のほうに太陽神を唯一神とする一神教が誕生したとの話がある。
なぜ一神教が出現するのかという疑問に、ユヴァル・ノア・ハラリは"農業をはじめたから"と答えている。
狩猟は土地の面積に対して獲物の数は決まっている。狩人たちの規模が小さくないと、すべての獲物を狩ってしまうので、ある程度の規模以上は大きくなれない。
一方、農業は大規模であればあるほど効率が良くなる。大規模農業には治水など大規模な土木工事が伴うので、人数は多い方がよい。このとき、多くの人間をひとつの目的でまとめ上げるには多神教よりも一神教の方が便利だ、という説である。
これはなんか説得力がある気がする。
つまり現在のキリスト教なんかは、農業に限らず大人数で目的を達成するための方便として使い勝手が良い、ということである。
そんな一神教は性質上、世界全体を覆いつくそうとする。信者の人数は無限に多い方がよい、善である、となってしまう。
一方、原始仏教の"悟り"というのはひとりである。あくまでも自ら真理を求める者だけ=出家した人だけが仏の教えを求めた。
人間の究極的な幸福については今のところ、原始仏教的真理…んなもん気のせいだよ説が、俺にとって一番説得力があるのだが、ちょっと頭が良すぎる、というか、そこまで普段の生活で冷徹になりきれない。孤独は寂しいんですよ。
ひとつ前のブログで、人類としては同世代あたり3~7人程度でキャッキャ・ウフフするのが自然じゃないか説を俺は唱えたワケだが、キリスト教なんかの一神教は大人数相手だし、原始仏教はひとりだ。
その3~7人程度としての集団の思想というか思考様式というのがすぐ思いつかない。
吉本隆明は3人以上の集団による政治的権力構造なんかを書いてた気もするが、基本的には敵・味方概念の政治の話なのでちょっと違う。
(そもそも吉本隆明の日本語がよくわからないし)
一昔前の"リゾーム"地下茎なんかの概念(リゾーム概念については現代哲学解説本よりも攻殻機動隊Solid State Societyを見た方がわかりやすい)は近い気もするがちょっとイメージと異なる。
最近、橘玲「幸福の資本論」を読んでて、その3~7人程度の仲間と、そのメンバーを取り囲む巨大な経済的つながりのイメージでハタと思ったのだが、一番近いのはホロンである。
torisoba-bekunai.hatenablog.com
ただしホロンの場合は階層(ヒエラルキー)がある程度キッチリわかれてる感じがあるんだけども、俺がイメージするのは平面的に各メンバーは緩やかに連結しつつ、同時に各メンバーにはそれぞれに経済的連鎖が下部構造として存在するというイメージである。